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コピー&ペーストしたみたいな日常。

どこからかコピーしてきたものを。ただ、そのまま貼り付けしてきたかのような。

「あぁコレ確か、昨日も、一昨日にも見たはず。」そうやって思わされるくらい、似通った景色を今日も同じように眺めている。

そんなことをボンヤリと思ってたら。長らく続けてきているこの日常の描写に対して、不自然さだとか、疑心感だとかの感情が、以前よりも全く上手く抱けなくなっていて、むしろ下手になっていそうだとも感じた。

とはいえ繰り返しているのに、下手になっているってなんなのだ。今よりももっと以前には、頻繁に色んな葛藤が自分の中に渦巻いていたように思えたが。

いつのまにか、やることが当たり前。そうすることが当たり前。当たり前、当たり前が体の芯に刷り込まれてきたようで。それは自身の無意識の思い込みから来るものか。ただ繰り返して出来上がった産物なのか。貼り付けを繰り返してきた毎日の、その最中の何処かでは確実に敏感さが濁って、鈍感さが前に出てきたようだ。

こうなった状態のことを「平凡な日常」と単純な一言で表すことができるのだろう。一括りに、そんな言葉にまとめられそうな程度なだけであって。通い慣れた道をただ歩いて行き来するかのようにして。それでもきっと、そんな日常が続いている細部には、キチンと"今日やるべきこと、明日やるべきこと"の理由付けが必ずあったはずで。今までこうしてきた理由が何もない訳ではないのに、まるで何もなかったのように感じてしまう。意味もない毎日を、ただ消費して過ごしてきただけだと何故か考えさせられる。

全てが当たり前に感じすぎてきたから、違和感もないし流すようになっているのだろう。やるべきタスクが頭の中には埋もれさせられていながらも、忙しさに動揺しないように、体が慣れつつあって。最後には無心にでもなるのだろうか。そうやって日々の忙しなさが、きっと今日をも含む日常と平穏を作り上げていくかのような感じ。その程度の日常がいずれ失われることも、避けたくなる代物に置き換わってゆきそうだ。

こんな日常なんて誰でも送れそうで、有難いことに自分自身さえ同じように送れていて。よく考えたら、変に嫌気がさす方がおかしいのだろうと思う。この毎日自体に悪い事象が混じったように感じている訳ではない。むしろ1日1日、丁寧にキチンとやるべき事をやっている分、褒められるべき部類なんだろうが。しかし、なんだか、こんなにも"明日にも似た日がくるだろうか"と保証されたような生活をする生き方に、嫌気がさすよう思ってしまう瞬間があって、そういう気持ちは大事にした方が良いのだろうかと考える時がある。

「平凡ボケし過ぎだろうお前」と感情が自分を奮い立たせてくる。どこか自分がこのままだと、ただの平凡な日常を繰り返しているだけで、無価値な奴だと自覚させてくるようだ。でも、それの何がダメなのだろうかと考えても。ダメな理由付けは、大抵自分自身についてベクトルが向いているような気がした。

結局、誰でも送れるような日常を変わらず自分も同じように歩んでいる分。自分の替りなんかは簡単に見つかるものだろうと思えてしまうから。自分には誰かから優先されて選ばれるような価値のない人のように思えてしまえる量産型。しかしそうやって否定気味なのは、自己に対しての過剰な期待を寄せている節があるからなような気もする。

でも分かっている、自分が自分へ期待していたからと言って、目の前の結果には何一つ役に立たない。人から期待されてこそ、人には価値が出てくるものであり。自己評価が高いだけでは、社会的評価には足りないと理解していて。価値のある意味とは、例えば、その人にしか生み出せない生産性で、他者に影響を与える事ができる側の人達であって。そういった人達の日常の詳細と、自分のこの日常の詳細とを比べるから、明らかに自分と彼らの間にはクリエイティブさが欠けていたように感じてしまう。

創り出す側に。そう自分が、今の自分ではない、そんな何者かになりたいなんて思ってしまう強欲さからきている、自己否定的に促すカタチの感情なのだろう。

あぁ、日常からして、他と何にも変わらないチンケな生き方。それだから、全く違う世界で生きる、自分とは違った日常を過ごしている人々に対する少々の憧れと嫉妬を抱く気持ちが簡単に抱ける。

クリエイティブな日常とは、どんな気持ちを抱けるものなんだろうか。毎日新しい出来事があって、毎日新しい刺激を得て。誰も想像の出来なかった選択肢を自ら選べるような環境であって。こんなにも、コピー&ペーストを繰り返すだけのような日常な訳ではないだろう。新しい物事を日々でも生み出していく。そんなようなクリエイティブさに溢れているような日常に憧れるのは、自分の日々なんかがその真反対に位置するからだろうか。

きっと、そんな日常が送れたら。こんな連続するだけの日々にも、彩りが出るのだろうか、と妄想をしたくなるけど。そうやって憧れを抱いている気持ちが昔からあったとしても。今になって変化もなく叶ってもいなければ、情熱なんかも最も簡単に見失ってしまってしまえる。

そうなれば、むしろ自分の平凡さを簡単に受け入れられた方がいいようにも思う。ただ羨んでしまう気持ちが増やさずに。まぁでも、そのうちそんな感情にも慣れはついて回ってくるのだろう。

ずっと同じような日々を送っていると、感情の解像度もどんどんと落ちて曇ってくるように思うのだ。解像度が落ちていくにつれて、日常に対しての不思議感を感じる気持ちも薄れていくのだろう。

無知な時は幸せだったと思い返せる。学生の頃、楽しそうな事へ純粋に飛び込めた。誰かに見られて、楽しそうに過ごすことが人生の勝ち組だと勘違いしていた。本当は、アラサーに近づくにつれて"疲れた"なんて感情の方が前に強く出るようになってきてしまう。娯楽を追い続けるのに目を背けたくなるようにして、家には引きこもる日が増えていて。

そんな日々がつまらないと思えなくなるほどには慣れてしまったのだと思うと、良いとはいえないが無駄なエネルギーを使わない分に省エネが自分には最適だとすり替わるような考えになっていた。

人の幸せってなんだ。自分の幸せってなんだ。幸せになるために、自分の人生を最大限に活かせるために。何をするべきかを考えてきたはずだけど、その答えなんて一貫性の有るものではなく、自分にできることを最大限におこなってきたところで。迎えるべき最終地点は、落ち着きの一直線へと向かうようで。

「人生が最高に幸せだと思えた瞬間ってあったんだったっけ。」そう考えていると、その幸せの持続は、今にへと持続していないことを実感してしまう。

あんなに純粋に無意味に騒げていた若かりし頃の自分がただ異質なだけだったのだと距離をとりたくなる。

前向きで元気いっぱいな言葉を発することに、恥でも感じ始めるようになった時に活力は失われたのだと思う。

「あれが良い、これが良い」よりも「それで良い、それで良い」と理解ではなく、気持ち的な納得が簡単に出来るようになった時に。そんな自分が惨めだとは思わないほどに、情熱なんかさえも無くなっていったように思う。

残りの人生のうちに。あと何に慣れることが出来るのだろう。

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