母親という存在を失ったのは1995年の今頃だった。 当時2才の私の頭に残る記憶といえば、女性が小脇に抱えたブルーの長財布。ジッパーに付けるにはサイズが大き過ぎる101匹わんちゃんの立体的なキーホルダー。 記憶の女性は誰だったのか。 私は素足で足元が冷たかったこと、見上げた先の女性に安心感を覚えたことだけは記憶している。 それからもうひとつ、断片的に覚えていることがある。 誰かに後ろから抱きかかえられ、腹が苦しかったこと。 そしてまだ上手に箸を使えない私の右手に割り箸を持
父と私は団地に住んでいた。 世帯にもよるが他では考えられない家賃の安さが魅力 生活困窮者はこぞって時期を待ち倍率を争い応募する。抽選とは名前だけ、殆ど最初から決まったようなもので自立出来ず住居を与えなければ路頭に迷う順になっている。 部落差別とまではいかないが、団地の子差別は確かにあったと思う。家庭に訳ありですとレッテルが貼られているようなものだ。 公園で顔を合わせた子に声を掛ける 「おともだちになろう」 友達になるのは得意だった。 「お母さんが、もうあそんじゃだめ
11月に入り急に冷え込んだように思う。 日中気温が上がってもどこか情のない風が吹き、朝夕には肩をすくめるほど冷える。 寒い季節は嫌いだ。 長袖の羽織を持たない期間の少ない私 学生時代、素足にスカートだったなんて信じられない なんだか年々寒がりが加速している気がする 10月中頃にはヒート系インナーや起毛のスパッツを入れている同年代を、私は知らない。 そして、そうだ先日私は華の20代を終えた。 刺激のない生活を日めくり過ごし気付いたらぼんやり1年が終わる。 なんとなく暮らして
喉が渇いて油を飲んだことがあるか 腹が減ってネコの餌を食ったことがあるか 割と大きくなるまで調理ができなかった私は、 いつ帰るか分からない父を待ちながら冷蔵庫や食品がストックされている収納庫を開けたり閉めたりしていた 収納庫にはカレーのルーや乾麺なんかがあったのだけれど、なにせ調理ができない。当時火も使えなかったのでお湯も沸かせない。そのまま食べられる物を探すしかなかった 冷蔵庫には遥か昔に期限が切れたソースやマヨネーズなんかの調味料、何かを漬けてあったのかピンク色の水
形がある物はいつか壊れる 生じて滅するという自然の摂理であり 全てのものは、そういう風にできている。 父は昨今、ほとんど自力で動けなくなった 2年前、11月26日午後 定期的にケアを依頼していた訪問介護員が異変に気付き救急搬送 そのまま緊急入院になり、この日が父が自宅で過ごした最後になった。 脳梗塞、脳出血、右内頸動脈高度狭窄、頭蓋内主幹動脈狭窄 「頭の血管が詰まり麻痺が出ているが脳出血も併発している為、血栓を溶かす薬を強く作用させ押し流せば脳出血が致命傷になる。併せ
記事を書き始めてもう3年になる 内容が内容なのでなかなか記事を増やせずやっと10本あるかないかという所 辛く苦しかった当時の環境を思い出し、過去と向き合うのには胆力がいる 最近では自力で上がってこれない程に感情が沈む事がめっきりない。多少の浮き沈みはあるものの希死念慮に囚われることがなくなった。 生きるとか死ぬとか、そういうことを無駄に考えなくなった 前向きでいられる事はこの上なくいい事だが、こちらの進捗と反比例しているので更新がままならない それでも何か“いま感じたこ
父は家をあけることが多かった。 妻と死別し、会社を畳み、生活保護の世話になっていた父。 社会との繋がりを失い取り残された寂しさを飲みに出かけることで埋めているようだった。 昼間から営業している酒場に入り浸り、日が沈めばその足でスナックへ。 流石の九州男児。やたらと酒に強かった父は飲み始めると長かった。 酒を煽れば煽るほど調子が良くなりフットワークが軽くなる。 あたりが暗くなり、寂しさでいっぱいの私。 テレビは嫌いだった。 画面に映るひとは皆笑っていた。楽しそうだった
幼い頃から変わらない 口に出せない不満やストレスの矛先はいつだって自らに向かっている。 爪を噛む、皮膚を毟る、鋭利な物を手に刺す、髪を抜く ... 分かりやすい自傷癖は他人の目につきやすい分コンプレックスとしても大きい。 指先はいつも血が滲んでいて、人の目につくと驚くなり気持ち悪がられるなり強い反応を示されてしまうので見られたくなかった。 床に落とした小銭やカードは拾えないから、落とした物より更に薄くたわむ素材のカードを差し込んで拾う。 缶のプルタブは開けられないから
お小遣い制度のなかった我が家。 欲しいものは父に頼むしか方法がない。 ワクワクしながら回すガチャガチャ どちらがオマケか分からないオモチャ入りラムネ菓子 色とりどりの香り付きボールペン キラキラしたビーズのアクセサリー 当時収集が流行ったラメやブロックのシール 月刊の少女漫画雑誌 キャラクター物の小さなメモ帳やレターセット 私の心をときめかせる物は決まって父に煙たがられた。 「お父さんがお前の年の頃には漫画なんて卒業していた」 「文具なら家にあるじゃないか」 「そんな物を
不潔な子どの学校にも1人くらいは居たんじゃないだろうか。 いつも同じ格好で登校してくる。 髪は乱れていてベタついている。 なんとなくすぼけた顔をしている。 体臭、口臭が鼻につく… 私がその“不潔な子”だった。 小学校に入学。 「アイツぜってぇ風呂入ってねえやろ!」 そんな嘲笑からいじめがはじまった。 不潔な子の周りには必ずバイ菌を移し合うゲームが流行る。 やってる方は楽しそうだ。 バイ菌をつけられたら時間制限があるようで、鬼ごっこが始まる。リミットを超えるとバイ菌を
はじめから読むにはこちら↓↓ 医師の言葉に、息が詰まる。 「お父様の性格はよく聞いていますし、大丈夫ですよ」 正直とんでもない、と思った。 でももしかしたら?医者が話せば聞いてくれるかもしれない。 理解はしてもらえなくても、事実として認知くらいはして貰えるかもしれない。 不安は拭えなかったが、医師の言葉に押され僅かな期待を胸に次回の受診予約を済ませた。 「あのね、病院の先生が今度の受診の時はお父さんも一緒にって」 その時、父が何と言ったのかは覚えていない。 多分「
はじめから読む方はこちら↓↓ 精神安定剤、抗不安薬が処方され投薬を開始。 飲めば治るような簡単な物ではなかった。 それどころかアカシジアの副作用に悩まされ、下肢に耐え難い不快感を感じ、じっとしていられない。これはきっと経験者にしか分からない。本当に辛い。 余談だが断薬から4年経つ今でも下肢に不快感が蘇り眠れなくなる事がある。 では、服薬して何が起こるのか。 数時間ぼうっとした頭でただ1日が過ぎる。 確かにパニックは起きなかったが鎮静作用で何事にもやる気が起きず、ただ呼吸を
はじめから読む方はこちら↓↓ 私の母は自殺した。精神疾患だった。 閉鎖病棟に閉じ込められ、面会に来た父に「此処から出して、(此処にいると)おかしくなる」と泣いて縋る母を可哀想に思った父。 退院の手続きを取って数日、母は行方不明になった。 戦後を踠き畜生根性で生き抜いてきた父には精神疾患の理解は到底困難で、甘えだ怠けだと頑なだ。それは現在も変わらない。 きっと母もそんな父に泣いた事だろう。 警察への捜索願い提出から数日が経った頃、 数枚の手書きの遺書と共に山中で遺体が発見
なにかにつけて言われ続けてきた言葉。 「他人の嫌がる事を率先してやりなさい」 「苦労をした分いずれその行いが自分自身を助ける」 黙って聞いていた頃の幼い私に説きたい。 自分がやりたいことに伴う苦労以外は選んではならないと。 いざ、己は何がしたいのかと問われた時 初めて自分を中心に物事が考えられないことに気が付く。進路に躓き、就職に躓く。 辛い道を這う事で手に入るのは成長というより、特定の圧に合わせた適応性が身についているだけだ。 こうならなければ生きていられないから適応
生きることは、大変である ここで書く“生きる”とは生存していることではなく、人としてまともに立っていること。 別に食事が取れないわけじゃないし、死ぬ程お金がないわけでもない。仕事もしているし雨風凌げる家もある。 肉親も健在だし、友人がいて、恋人がいる。 それでも私達は生きづらい。贅沢な悩みである。 同じように生活し同じ出来事が同じタイミングで起こったとして、私達人間は受け取り方や感じ方が違う。ストレスを受け止められる器の大きさが生まれ持って人それぞれ違うのだ。 腹を