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角田尭史はこんな人


※2021年1月1日時点のプロフィールです

はじめまして。
角田尭史(すみだたかし)と申します。

このnoteにおいて、僕のプロフィールを簡単にまとめていきます。
ぜひ気軽にご覧ください。

簡単に自己紹介

まずは簡単に自己紹介をします。

■名前
角田尭史
■生年月日
1991年6月1日(現29歳)
■出身地
愛媛県
■居住地
静岡(下田)・愛媛(松山)の2拠点生活
略歴
北海道大学・大学院で土木工学専攻
→都内の大手重工メーカーで土木建築技術者(2016.04~)
→都内のメディア運営会社(ベンチャー)で編集者&編集長(2018.07~)
→㈱FromToで取締役CHRO(2019.11~)
→㈱しもズブ創業&取締役(2020.10~)

現在の仕事や活動

現在の仕事や活動について、ここで簡単にまとめます。

①株式会社しもズブ取締役

2020年10月に、静岡県下田市にて創業した株式会社しもズブで、取締役を務めています。
代表の藤井も私も、下田以外の出身で、関係人口同士で設立した会社となります。

その中で私は、経営戦略/財務/会計/経理/資本政策etc、いわゆる会社の”中”を担当しています。

②個人事業主

2つ目の個人事業主について。
「midnight sun」という屋号です。
2021年2月に法人化すべく、現在準備を進めています。

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その中で、現在仕事としているのはメディア運営/SNS運用/店舗プロモーション支援/飲食店プロデュース/事業戦略/イベント企画・運営etcです。

また、自分のサービスもいくつか開発中で、1月に入ってから『楽しく学び合う場~studytainment~』のα版が動き始めました。

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③アーティスト

2020年12月に始めたばかりですが、アーティスト活動もしています。
静岡県下田市にて開催されたアートプロジェクト「雄弁な沈黙は狭間で囁く」にて、音響デザイナーとしてデビューしました。

2021年は、「自分が主催でショーを開催する」ことが目標です。

このように、私は「複業家」としてジャンルにとらわれない働き方にトライしています。

これまでやってきたこと

過去にやってきた仕事について、ざっとまとめました。

一社目(重工業):発電プラントの土木建築設計・施工管理/社内メディアの運営
二社目(出版社):インタビュー/編集/ライティング/メディア運営/ライティング講座/パートナー採用/インターン採用/経理
三社目(HR企業):広報/採用/PM/事業戦略/個人営業/コミュニティ立ち上げ・運営・閉鎖/イベント企画・運営/メディア立ち上げ・運営/会議の進行
個人事業主:メディア立ち上げ支援/編集/事業オンライン化支援/業務改善コンサルティング/ライティング講師/採用支援/プロモーション支援/ツアー集客支援/イベント運営/ライブ配信/プロジェクト運営/会議の進行/図解・グラレコ

できること、得意なこと

ここからは、僕自身のできること、得意なことを棚卸しして書き記します。
「君は何ができるの?」と疑問に思った方は、こちらをご覧ください。

①話を聞き、整理し、可視化する

編集者としての経験からか、人の話を聞いて整理することが得意になりました。

聞くときは本当に聞き役に徹し、miroやグラフィックレコーディングを駆使してリアルタイムでの可視化をしています。

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また、インタビュー・ライティング・編集もこの分野に入りますね。

②イベントやプロジェクトの企画、運営

2019年ごろから、イベントやプロジェクトの企画、運営に携わることが増え、自分でも主催したりしています。

オンラインorリアル問わず、また、規模に問わず、目的やゴール設定からスケジュール設定、ゲストや運営のアサイン、広報活動、当日の運営、アフターフォローなど、誰かに教えを請う必要はないくらいには経験してきました。

これまで関わってきた(or関わっている)ものの一例を紹介します。

イベント↓

③ライブ配信

このライブ配信は、趣味の範囲で2020年2月から開始しました。
例のウイルスで、世の中の動きが鈍くなり始めてすぐですね。

オンラインイベントよりはライトに、かつ生配信だからこそ生み出せる熱量があるのは、何度も実感してきました。
アイデア会議からインタビュー、街の実況中継など、その活用法は様々。

高尚な機材がなくても、色んなジャンルの配信に対応できるので、「ライブ配信やってみたいなー」という方は、ぜひ気軽にご相談ください。

④チームビルディング

メディアの編集チームや、フリーランスのプロジェクトチームを結成したことが何度かあり、その時に必ず必要なチームビルディングもできることの一つです。

チームを組成してエンゲージメントを高め、かつ効率よく仕事を進める体制つくりには自信があります。

⑤会議のファシリテーション

最近になって得意になったことの一つが、会議のファシリテーションです。
miroなどのツールを用いながら、時間内で質の高い会議ができるよう進めています。

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ヒストリーを簡単に

では、僕自身のヒストリーを簡単にまとめます。
僕の人間性を、何かしらの形で発見していただけると嬉しいです。

幼稚園時代

人生、いきなり暗黒から始まりました。

根が引っ込み思案な僕は、周りの子たちとうまく付き合えず、学年で130人くらいいる幼稚園で友達は3人しかいませんでした。
しかも3人とも女の子。

それゆえ、一人で遊ぶことが多く、年中さんのときに机の下に隠れてビクビク遊んでいたことを未だに覚えています。

でも、悪かったことばかりではありません。
両親が知ってか知らずか、勉強熱心な幼稚園だったため、先行して色んなことを教えてくれました。
九九は年長さんでマスターしていたくらい。

それもあって、その後長らく「勉強ができる人」「頭がいい人」と言ってもらえているので、一人で黙々と勉強することに慣れることができて感謝ですね。

ちなみに、当時は体がすごく弱く、マラソン大会では男子最下位でした。

小学校時代

そういう幼稚園時代を過ごしたので、小学校ではまあ有利でした。
テストは100点ばかりで、かつ野球も小2から始めたので、おそらく周りよりは「勉強もスポーツもできる子」だったと思います。

そうなると、モテるんですよ。
僕の人生で一番モテたのは、間違いなく小学校時代です。

だから、この頃は本当に楽しくて楽しくて。
基本的にいい思い出しか残っていません。

※自慢したいわけではなく、のちの人生で大きな意味を持っているのでそのまま書いています

中学校時代

ここから、僕の人生は一変。
暗黒に逆戻り。

部活動が始まり、周りもスポーツを始め、僕より皆センスがあったので、一気に抜き去られていきました。
また、元々人と話すことが得意ではなく、引っ込み思案で、かつ見た目も少し特徴的だったので、色んな人からからかわれるようになったのですね。

休み時間に突然椅子を引かれて転倒させられたり、廊下を引きずり回られたり、好きでもない女の子に告白されられそうになったり。
そうなると、当事者以外の目もいいものではなくなり、距離を置かれることが増えました。
そんな3年間は本当に辛かったですね。

ですが、仲良くしてくれた友達もいて、この頃の友達とはいまだに仲良しで。
かつ、「大学は絶対(愛媛)県外に出る」という目標が生まれた頃なのですが、それは「周りとは違う世界に行ってやる」と思ったからなので、こういう扱いをされて逆に良かったのかもしれませんね。

高校時代

高校時代は、驚くほど思い出がありません(笑)。
県外に出ることだけを考え、スポーツ推薦で誘われていた学校を断り、試合に出る経験を詰めるように野球が弱い進学校を選びました。

だから、高校の3年間は本当に野球と勉強しかしていません。

その結果なのか、最初はかすりもしなかった北海道大学に無事合格することができました。

(学内順位も、最初は300位だったのが最後に1位になることができ、卒業式で卒業証書を代表してもらう役になれたのは超快感でした)

でも、もうちょいちゃんと恋愛しとけばよかったなあ。

大学、大学院時代

ここからは、実家を離れての生活。
大学時代以降は、「それまでは何やったんや」と思うくらい、今の僕を形づくっている時間になっています。
すべて書くと、それだけで10000字くらい書けてしまうので、トピックを厳選して書きます。

①大学野球

それまで、ある種惰性で野球をしていたのですが、大学野球を始めてから大好きになりました。

周囲の大学と少し変わっていて、指導者がいない野球部だったのです。
(監督と学生コーチはいましたが、あくまで選手のサポート)

かつ、旧帝大ということで勉強も忙しく、放課後に全員がグラウンドに揃うことは不可能でした。

だから、限られた時間でどう効率的に練習するかを考え、そのメニュー自体も選手が考え、チームも目標から選手が考えるという、「自分で考えて自分で行動する」部活だったのです。
これが僕にジャストフィットして、スキあらばグラウンドに行って練習したり、YouTubeでプロの動画を研究したりと、野球にドップリハマってしまいました。
(ちなみに、学業もそれなりにやっていましたよ)

そんな大学野球で、一番の財産は「ケガをした」ことです。

後半2年間はずっとケガをしていて、最後の大会なんてベンチにすら入っていません。
日々上達し、楽しそうにプレーをするチームメイトを見るのは本当に辛かったのですが、このケガは僕にとって大きな意味を持っています。

それは、「周りを見られるようになった」ということ。
そして、「チームで動くことの本質を理解できた」ということ。

試合に勝つには、もちろん出場している選手が打って守る必要があるのですが、必要なのはそれだけではなくて。
指揮を出す首脳陣、スタメンをサポートしバックアップとして控えるベンチメンバー、選手のコンディションを整えるマネージャーやトレーナー、そしてその全員の鼓舞するスタンド。
全員が噛み合って、初めて「勝つ」という結果につながるのです。

これを、一番試合に遠い「スタンド」という立場になったことで知ることができました。
ケガがなれれば、間違いなくもっと傲慢な人間になっていました。

②大学院での研究

次に研究なのですが、これも大きな財産になっています。

学部生時代の研究を大学院でも続けていて、教授の意向で解析(プログラミング)を新たにやることになりました。
でも、プログラミングが本当に苦手で、いくら勉強してもチンプンカンプン。
研究が全く進まないことに焦りを覚え、かつ教授からも怒られることが増えました。

わからないものはわからない。
でも結果は出さなきゃいけない。
そこで僕は、それまでのやり方を勝手にやめ、勝手に実験機材を揃え、勝手に実験を始めました。

すると、たまたまなのですが、それまでわからなかったスゴい(らしい)結果が出て、教授に報告すると「やったな!論文書くぞ!」と喜んでくれたのです。

それ以降、学会にたくさん出させていただき、国際学会でペルーにも行かせてもらいました。
また、その学会で色んな研究者の方と出会うことができ、「頑張れば、その先で出会える人もいるんだな」と実感した出来事でした。

この研究での経験から、僕は「自分が思ったようにやっていい」「その先で新しい世界が待っている」と学びました。

③2回死にかけた

大学時代の最後の大トピックは、「2回死にかけた」こと。
すでにこの世にいない可能性だって十分にありました。

1回目は、東日本大震災。
大学野球の合宿で茨城の海沿いの街にいて、そこで被害に会いました。
練習中に地震がきて、地割れするわ民家の屋根は剥がれるわ電柱は倒れるわ、ホント地獄絵図。

津波警報が鳴り響き、一刻も早く高い場所へ逃げる場所がありますが、皆同じことを考えるため、道路は混雑してパニック状態。

そのとき、「あ、俺死ぬんだ」「人生ってこんな簡単に死ぬんだ」と思わされました。
あの時の感情は、いまだに鮮明に覚えています。

(ちなみに、僕のいた街は奇跡的に津波被害ゼロでした)

2回目は、卒業間際に友達と車で行った網走からの帰り道。
冬の北海道は道路がカチコチで、特に網走付近は気温が低いためカチコチ度は尋常じゃなくて。

高速道路を運転して帰っているとき、タイヤがスリップして、反対車線に乗り上げてしまったのです。
幸い、反対車線に車がいなかったので無傷で済んだのですが、1台でも来ていたらもうこの世にはいません。
「あ、俺死ぬんだ」って思う暇もなく終わっていたでしょう。

この2回の経験から、僕は「いつ死ぬかわからない」「今日死んだっておかしくない」と本気で思うようになりました。
生きることに必死になった、というか。
生きててもすぐに死ぬんだから、死んだように生きるのはやめよう、と。

大企業時代

無事生きている僕は、内定をもらった大企業へ入社。
当時、大企業に行くことしか頭になかったのですが、いい選択だったと思います。

仕事は、大学時代の知識を活かして土木建築の設計、施工管理。
国内外の発電プラントを担当していました。

スケールの大きい仕事で、やりがいを持って取り組めていたのですが、結果的に2年3ヶ月で退職することに。
それには、いくつか理由があります。

【1つ目:現場勤務の中で病んでしまったこと】

僕が仕事ができなかったのが最大の原因なのですが、一緒に現場に入った上司にこっぴどく怒られる毎日で。
最初は仕事への指摘だけだったのが、次第にエスカレートして、人格まで否定されるように。
お前はこの仕事向いてない、早く荷物をまとめて帰れ、お前を採用した会社はどうかしてる、人生お先真っ暗だな、などなど。
そして、ちょっと笑ったりちょっとムスッとしただけでも罵声を浴びせられ、笑い方も怒り方も忘れてしまいました。

こんな、一日何時間も怒鳴られる日々が続くと、そりゃメンタルがおかしくなりますよね。
夜眠いのになぜか寝ようとしなかったり、ちゃんと起きてるのにわざと遅刻したり、与えられた仕事を放棄してトイレ掃除をしたり。

で、僕を心配して来てくれた部長が、コソッと電話番号を渡してくれ、耐えられなくなったタイミングでSOSを出しました。
人生で初めて「逃げる」という選択を取った瞬間です。

【2つ目:その後戻った本社の雰囲気がドンヨリしていたこと】

本当の気持ちはわかりませんが、皆楽しくなさそうに働いていて、それが辛くなってしまったのです。
聞こえてくるのは誰かへの不満、飲み会にいけば愚痴の連続、笑顔なき職場。
現場から逃げ戻った僕は、偉そうにも「俺はこれからこんなところで働くの?」「次世代の人たちはこんな職場で働きたいと思うのか?」と悶々とするように。

その原因を考え、たどり着いた仮説が「仕事の魅力ややりがいを忘れているだけでは?」ということ。
日々こなすべき業務に追われ、仕事をすることが目的になってしまい、本来の価値を忘れているのだ、と。
きっと、現場の上司もそうなんだろう、と。

この発見から、「働く(生きる)をもっと楽しいものにしたい」と思うようになりました。

【3つ目:「書く」ことに活路と使命を見出したこと】

「2年目社員が社内メディアの運営を担当する」という謎ルールがあり、そしてなぜか僕がリーダーを担当することになりました。
(自分がやりたくないから「こうやってリーダーを決めようぜ」と提案したら、「そうやって仕切れる人はお前しかいない」ってことで、裏目に出て無事リーダーになりました)

やってみると、めちゃめちゃ楽しかったんですね。
社員さんにインタビューしに行ったり、皆で企画会議をしたり、自分で記事を書いたり同僚の文章をチェックしたり。
その中で、色んな人の文章を見ていると、「もしかして、俺って文章うまいんじゃない?」と思うようになったのです。
先輩たちから「わかりやすい」と言われたり、僕が同僚の文章をチェックすると真っ赤になったり。
そうやって、自分の違う能力に気付くきっかけになりました。

また、その頃から少し課外活動も始めていて、文章を褒められることがたびたびあり、かつ「記事書いてくれない?」なんてお願いされることもあったので、「ひょっとして、こっちの方が活躍できるのでは?」と思ったのです。

そして、そうやって文章で伝えることで、働くすべての人にメッセージできるのではないか、働くをより豊かなものにできるのではと思い、「文章で伝えたいことを伝えられる人間になろう」とメディア業界への挑戦を決めたのでした。

ベンチャー時代

ここからは、もう本当に充実した日々で。
毎日毎日濃すぎて、いい意味で全然思い出せません。

ベンチャーの出版社で編集長を経験させてもらい、その中で本を3冊も編集させてもらいました。
また、HR系のスタートアップに役員としてスカウトしていただき、経営に直接関わることができ、かつ"複業"で僕のキャリアは精神的に豊かなものになっていきました。

気が向いたら、この期間のことも追記します。

独立、そして複業起業家へ

2021年は、これまで背負ってきた肩書や看板をすべて捨て、新たなな挑戦をすることに決めました。
すでに昨年秋に設立した(&2人で経営している)株式会社しもズブ、そしてこれから創業する株式会社midnight sun。
いきなり2社を経営する「複業起業家」としての道です。

midnight sunは、読んで字のごとく「真夜中の太陽」の意味。
どんなに暗い世の中でも、僕だけは太陽のように光り輝いていたい、その結果誰かに「一滴」をもたらしたい。
そう願ってつけた名前です。

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これから僕は、誰かのmidnight sunになれるよう、孤独と向き合って走り続けていきます。

メディア、イベント露出

これまで、いくつかのメディアにて僕のことを紹介いただきました。
今の僕がなぜあるのか、何を目指しているのかを客観的にわかりやすくまとめてくださっています。

ウェブ記事

LISTEN様

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ニュースイッチ様

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テレビ

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イベント登壇

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CREEDO様

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最後までご覧いただきありがとうございます!
お仕事依頼、実績については以下のnoteにまとめておりますので、そちらをご覧いただけますと幸いです。
※2020年3月時点のものなので、早くアップデートしなきゃ…

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