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イベントというもの


先日、公開練習会&新年会&おつまみ交換会という催しをした。

相方が2月に大きなステージを抱えていて、その練習に追われている中、私のお誕生会を含めたオフ会の相談を受け、それは辞退をさせていただいた。
私自身はパフォーマーではないので、誕生日のパワーはあまり必要とせず、逆に消耗してしまうからだ。お祝いは嬉しいが、静かに過ごしたいと思っている。

しかし、せっかくお話をいただいたので、何かの思し召しかもしれないと思い、2月本番の練習を公開してしまったらどうだろうと思ったのだった。
練習&飲み会、それならばいいのではないかと。

ただし、内容については非公開であるため、どなたでもどうぞというわけにはいかず、昨年に行ったイベントでお世話になった方々にお声がけさせていただいて、ご都合のつく方にお集りいただいた。

そうすると、「練習会」という名のもとに、「私もやってみたいことがある」とおっしゃっていただけて、相方以外の「練習」をご披露していただくこととなった。
普段は見せていただけない姿、ある人は渋くてカッコいいブルースを聴かせてくださったり、ある人は素晴らしいクラシックのピアノ演奏をご披露くださったり、そして、自らのたくさんの舞台に出演されている方は、今までのステージでは見せてこなかったパフォーマンスを見せてくださり、「練習」「非公開」であるからこその気負わない、それでいてのベストパフォーマンスで、本当に見事な芸を見せてくださったのであった。

一方で「おつまみ交換会」というのも大きな柱であった。
・普段は家族のために料理を作っているけれど、家族以外の人にも自分の料理を食べてもらいたい。
・自分の料理をどう思ってもらえるのか知りたい。
・自分が食べておいしいと思うものを親しい人にも食べてもらいたい。
・たくさんの人に自分の料理を食べてもらいたい。
・いつかプロの料理人としてやってみたい。
そんな人たちの願望を叶えたいという思いから、何度かおつまみ交換会を催している。

本来、イベントに食事をつけるのであれば、ケータリングが手っ取り早く楽である。
しかし、そこに拘るのは、それらの思いを形にしたいからで、こちらの要望を押し付けているわけではない。

「よくイベントやるよね。今度はなに?」

同僚によく聞かれる。

「赤坂のライブハウスでね……」

「まったく好きだよねー」

呆れながら言われるのだけれど、そういうことを言われる度に、思ってしまう。

(いやいや、好きでやっているわけではなくて)

もちろんやりたいからやるわけで、それは総じて「好き」ということなのかもしれないが、ステージに立ちたい、料理を食べてもらいたい、楽しみたい、共有したい、そういう人たちの思いを実現したく、そのために自分ができることをやる、ということであるから、それが好きなことなのか、と言われるとちょっと違う気がする。

なぜならば、それを実現するために、「嫌いなこと」もあるからだ。

それは、「責任を取る」ということである。

イベントを興した限りにはどのようなことが起きるかわからなく、不測の事態に備え、その時の全責任を負う覚悟を持っていなければ、不成功に終わる可能性が大きい。

人々がそこに集まるということは、その方に自らの時間を使っていただく。
大切なお金を使っていただく。
そこへの大きな感謝はしてもしきれない。
この場を借りて深謝する次第である。
そのお返しとして「楽しかった」と思っていただくことは必須の最低ラインで、それ以上を目指していかねばならない。

それでも中にはイベントの内容に苦情を訴える人もいるし、イベントそのものを批判する人もいる。それも受け止めなければならない。

以前、知り合いがイベントを興したが、予想と違う状況になり、そのトラブルの原因をSNSで投稿していた。

それは好きなことだけをやった結果であると言える。
意に反すること、自分は本来そうしたくなかった、残念だ、と公言してしまうのは覚悟が足りないからである。
そうやって逃げてしまった結果、一番大事なものを失う。それは、

【イベントに足を運んで笑顔で帰ってくださった人の心】

である。
これを何よりも大事にしなければならない。

嫌なことは人生の中でたくさんある。
それでも前を向いて歩いていく。

そう考えると、人生とは、イベントなのかもしれない。

皆、自らの人生の主催者。

そんな風に思った。



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