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アンリライアブル・ナレーター(当てにならない語り手)

 探偵が犯人ではない、というのは、デテクション(謎解き)とは関係のないスタイル(話体)的なドグマだ。そして、実際、探偵がじつは犯人であるデテクションは存在し、デテクションとして成立している。

 第一は、ナレーターが探偵本人ではない場合(たとえばワトソンのような探偵の相棒である場合)、探偵が犯人でありうる。相棒ですら知らない秘密を抱えながら捜査している、というわけだ。

 第二は、第一ともかぶるが、探偵自身が、自分が犯人であったことを自覚していない場合。『エンゼルハート』がそれ。したがって、相棒も知らないだろう。これは、記憶喪失、というのが、もっとも簡単なプロット。しかし、いまさら、あまりおもしろくない。故意ではなく、因果が巡って、じつは、というような意外性があってこそ、探偵が自分の罪に驚愕してこそ、デテクションの魅力というものだ。

 第三は、探偵がナレーターであり、最初から自分の罪を自覚しつつ、しかし、読者にもそのことを明かさず、むしろすべてを隠蔽すべく行動していく場合。こういうのを、「アンリライアブル・ナレーター」という。つまり、全編が嘘つきの嘘でできている、という話だ。

 しかし、全部が嘘なのは、すべての小説も同じ、ということになりはしないか。ここで注意すべきは、作者と、登場人物でもあるナレーターとの違いだ。アンリライアブル・ナレーターの場合、作者は、嘘つきの登場人物を正直に描き出していく。つまり、作者は介入することなく、ナレーターにあえて好きに嘘をつかせる。だから、そこに破綻が生じてくる。

 普通のデテクションであれば、犯人の嘘が破綻してくると、すでに途中でも、相棒なり、探偵なりが、そこを突いて、裂け目を大きくしていくが、アンリライアブル・ナレーターの場合、だれかに疑われているとすら思っていない。いや、たとえ疑われていると思っても、そのことを読者に知らせてしまって、読者に疑われるようなことをしたりはしないだろう。いやいや、あえて読者に自分が疑われることを知らせて、その疑いがいかに的外れか、語るかもしれない。

 これは、メタなデテクション、というわけではない。あくまで一般のデテクションの地平で繰り広げられる心理戦であり、犯人捜しのふりをしながら、読者を巻き込んでいくものである。というのも、アンリライアブルなことこそが、謎の核心なのだから。

 当てにならない、というより、強いバイアスのかかった主人公の一人語りという設定を用いることによって、出来事を客観化する、という手法がある。たとえば、『ハックルベリー・フィンの冒険』などがそうだ。日本でも、我が輩は猫である』が有名だろう。『ブリキの太鼓』もそうだ。

 強い主観性が、なぜ事態を客観化するのか。あまりに強い主観性は、おうおうに当事者性と両立しない。当事者であるためには、そこに共観性(聖書用語!)が成り立っていなければならない。しかし、浮浪児やネコ、成長を辞めた男は、部外者だ。そして、基本的に、当事者たちに共感を持っていない。そこに立ち現れる人々は、なれあいをはぎ取られ、生の小市民としての姿をさらすことになる。

 ナレーターではないが、ユーゴの『ノートルダム・ド・パリ』においても、副司教フロロは、カジモドを前にして、そのアンビバレントな関係から、まさにその小市民性をさらけだしていかざるをえないところに追い詰められていく。(ディズニー版やミュージカル版などより、原作はもっと複雑で深淵な物語だ。)

 近年では、イシグロの『日の名残り』が話題にのぼるが、その前作の『淡き丘の眺め』や『浮世の画家』も、主人公がアウトサイダーであることこそが、物語の基調となっている。だからこそ、その冷たい視線の向こうに、絶対にかなうことのない切望がある。

 近年、『氷男』のような、人工的なアウトサイダーを足場にした作品が人気のようだ。しかし、それは、むしろ幼児的、というか、ライ麦畑のような、自他分離の不完全な粘着を感じてしまう。結局、主人公にとって、そして、作家にとっても、自分が世界の中心なのだろう。そこに陶酔するファンを得られるのはよくわかるのだが、語ることの力は無い。

 アンリライアブル・ナレーターにおいて、彼は絶対的な部外者でありながら、なぜその世界に止まり、なぜ我々に語りかけるのか。信用できないのを知りながら、我々はなぜ彼の言葉に耳を傾けてしまうのか。ウソや歪みに彩られていても、それは沈黙ではない。彼には語りたいことがあり、我々は彼に問い質したいことがある。使いものにならない饒舌な冗句の向こうに、言葉を越える語りかけがあり、それをアンリライアブル・ナレーターは、誠実に担保してくれる。

11/01/2009

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