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​闇の奥での暮らし方


コンラッドの『闇の奥』

 『闇の奥』(1902)、その名前くらいは聞いたことがあるだろう。コッポラの『地獄の黙示録』、最近ではSFの『アド・アストラ』の元ネタとして有名だ。しかし、その元の小説そのものとなると、まさに闇の中。たとえ読んでも筋すらわからず、途中で放り出したという人もすくなくないだろう。

 そもそもタイトルが問題だ。日本では『闇の奥』で定着しているが、原題は、『Heart of Darkness』、闇の心臓だ。アフリカの中央部、コンゴの密林の奥地、そこに闇の心臓が息づいていて、人間の魂を飲み込んでしまう。

 あらすじは、たいしたことはない。ある会社の重役が自前の遊覧ヨットの船遊びに招待してくれた。しかし、テムズ川の河口、その引潮に乗って出航するまで、しばらく待たなければならなかった。そして、夕闇が深まる中、船乗りのマーロウが、このロンドンも、ローマ人にとっては地の果てだった、と言って、自分の人生を変えた経験、コンゴでのことを語り始める。

 東の方で六年ほど働いたマーロウは、アフリカの地図の空白、そこにのたうつ大河に魅せられ、叔母のツテでベルギーの「会社」を当たる。当時、コンゴは、ベルギー国王の私領とされ、その「会社」が「開発」(=搾取)を行っていた。おりしも現地の船長が亡くなって困っているとのことで、マーロウはさっそく乗り込んだ。

 といっても、コンゴ河下流は泥の浅瀬で、蒸気船は中流のレオポルトヴィル(現キンシャサ)にあり、そこまで密林の陸路を進まなければならない。そして、ようやく中央出張所に着いてみれば、蒸気船は、二日前、シロウトのむちゃな操舵で底に穴が開き、それから修理に数ヶ月を要した。ここで、マーロウは、奥地出張所のやり手のクルツ氏の話を聞く。

 この間にも、出張所支配人の叔父が率いる怪しげな探検隊が奥地に進むが、行方知れず。そして、ようやくマーロウは、支配人と巡回社員三人、計五名の白人のほか、罐焚きや操舵手、薪拾いの黒人三〇名を乗せてコンゴ河を遡っていく。途中では、河畔の見捨てられた出張所から白人たちが手を振り、また、密林の闇の中からは「土人」たちが矢を降らせ、二ヶ月の後、いよいよこの世とも思われぬ地の果てに至って、やっと奥地出張所を見つける。

 が、そこにいたのは、どこからどう来たのか、道化のようなロシア人青年。ここにクルツ氏はいない、と言う。この青年は、ここで熱烈なクルツ氏の信奉者となったらしく、そのすばらしさを延々と語る。クルツ氏は「土人」たちの王、いや、神になって、村にいた。だが、病気で瀕死。それを巡回社員たちが村人に担架で運ばせ、船に連れ帰った。二メートルを越す大男だが、痩せ細って幽霊のよう。

 そのクルツ氏が這って逃げた。マーロウがそれを連れ帰り、船はすぐに帰路へ。しかし、マーロウに書類を託し、クルツ氏は死んだ。死体は巡回社員たちがぬかるみに埋めた。マーロウは、ベルギーに戻ったが、あれもこれも記憶が定かではない。会社の弁護士だの、クルツの親戚だの、新聞記者だのがマーロウの下に押しかけ、聞きたいように聞いて帰った。そして、マーロウは、残った写真と手紙を渡そうと、クルツ氏の婚約者に訪れ、最後にあなたの名前を言っていました、とうそぶく。


闇のありか

 ここで、この小説、ぷっつり終わっているのだ。おかしいと思わないか。額縁構造なら、この後、遊覧ヨットの船上で「私」を含む客たちの会話があるはずだ。ところが、それが、わずか数行。ヨットのオーナーの重役が「引潮を逃したな」と言い、曇り空が闇の奥まで続いているようだ、と書かれているだけ。

 マーロウの視点で、しだいにクルツ氏に迫っていくので、ミステリアスな読み物としてはおもしろいのだが、情報が小出しで、いったいなにがどうなっているのか、わかりにくい。整理し直すと、クルツ氏は有能だったが、令嬢と結婚するには身分も財産も無かった。それで、仕事で一旗揚げるべく、コンゴ「開発」の最前線に信念と野望を持って乗り込んだ。

 彼には、奥地の「土人」たちを文明化してみせる、という壮大な計画があった。そして、実際、彼は辣腕で、カネになる象牙を奥地から大量に送り出してきた。これは、厄介だった。他の出張所は、自分たちの無能がさらされる、と恐れた。中央出張所の支配人に至っては、叔父を招き入れ、象牙の横取りを企て、そのために蒸気船の船長を殺し、代わりにマーロウが来ると知ると、船まで沈めた。

 しかし、クルツ氏の方も、順調とは言い難かった。象牙を確保するために「土人」たちを子分にして、村々の略奪支配、さらには蹂躙殺戮にも手を染める。彼は、その先に文明化がある、だから、これもいましばらくのことだ、と自分をごまかした。すでに仕事は成功し、帰国も可能だったにもかかわらず、道半ばの文明化計画のために、みずからあえて奥地に戻る。やがて体を壊し、頭がいかれ、ボロボロの化石の象牙まで掘り出し集め、村々に君臨する。

 結局のところ、彼が「土人」以上の「土人」になっただけのこと。最後の言葉、The horror は、わざわざ定冠詞がついているように、恐ろしい、という形容詞ではなく、また、恐怖という一般名詞でもなく、「あの魔境が! あの魔境が!」という実体、つまり、生きた密林に、魂を呑み込まれていくさまを表している。

 『地獄の黙示録』も『アド・アストラ』も、それがこの世と遠く離れたところにあって、自分たちは安全、と思っているらしい。だが、コンラッドは、戻ったヨーロッパで安穏に暮らす人々を、バカのくせに偉そうに、となじる。彼の小説は、額縁構造の底が抜け、この大都会ロンドンもまた魔境とつながっている、として、終わりが開かれているのだ。

 魔境は、コンゴにあったのではない。クルツ氏が入ったベルギーの「会社」こそがすでに魔境であり、その巨大で邪悪な組織的搾取の先兵として、彼の魂はコンゴ行きの前から吸い取られ、操られることになる。そして、マーロウの話を聞いている「私」も、じつは最初からその闇に呑み込まれているのだ。


魔境に暮らす

 遡れば、ヘンリー・ジェイムズが、『アメリカ人』(1877)や『ロンドンの包囲』(1883)で、ヨーロッパ上流社会の「密林」を描き出している。フィッツジェラルドの代表作『御立派なギャッツビー』(1924)も、貴族令嬢に憧れ、そのために闇の仕事に手を染めてしまう成り上がりが主人公。また、大恐慌下で「だれもが王さま」との標語を掲げ、政界を刷新する大統領になるために旧弊の汚職と腐敗にまみれていく上院議員ヒューイ・ロングの姿は、ロバート・ペン・ウォーレンが『みんな王さまの家来』(1946)で揶揄した。右往左往するばかりの敗戦後の混乱ドイツにあって、復興の壮大な計画をぶち上げ、ユダヤ人の大虐殺に手を染めていくヒットラーなど、クルツ氏そのものだ。

 いや、「密林」は、貴族や政治の世界だけの話ではない。自分が東大だの、テレビ局だのの片鱗を垣間見ただけでも、それらは魔境だ。かつて、その旧弊を刷新しようと乗り込んでいったはずのやつらが、そのわけのわからない正体不明の化け物に魂を奪われ、いつの間にか「土人」たちの王となって、むしろ旧弊の権化として支配し、化石になったボロボロの象牙を掘り出して喜んでいる。

 そんな特別なところでなくても、地方に行けば、みなマーロウと同じ経験をするだろう。そこには、かつて東京にいた、その改革のためにやってきた、とかいうやり手が、現地の「土人」以上に手を汚している。いや、東京でも同じこと。海外から来たとかいうやつが、もっとも日本的に、ごちゃごちゃと根回し、足回し。

 郷に入れば、郷に従え、などと、自覚があるうちは、まだまし。郷の「土人」たちに潰されないためには、余所者は、現地の「土人」以上の「土人」にならないとやっていけない。しかし、だからといって、うまく立ち回り、「土人」たちに祭り上げられて調子に乗っていると、しだいに自分自身が支離滅裂になって、クルツ氏のような狂気に陥る。

 口先はともかく、ここに骨を埋める、などと思うな。どこにあろうと、しょせんきみは永遠に余所者だ。改革などできると思うな。彼らは変わらないし、変れない。よかれと思って、なにかしても、よけいなことと逆恨みされるだけ。まして、自分でも現地で「土人」たちといっしょに手を汚したら最後。二度と抜け出せなくなる。その魔境こそが生きているのであり、その魔境は抗って勝てるものではない。抗おうとすれば、よけい搦め手に取り込まれてしまう。

 『闇の奥』の中央出張所に、若い上級社員がいる。レンガ作りの担当だそうだが、素材が無いとか言って、そんな仕事はまったくしていない。ふらふら、ふわふわ。マーロウは、こいつ、張り子で、中はからっぽ、底に砂ぼこりがあるかないか、とバカにしている。だが、ここまで信念も存在感も無い彼は、なまじ年季のいったクルツ氏のようにも、支配人のようにも、マーロウのようにもならず、きっとなにごともなかったかのように自分のいるべきところへ流れ帰って行き、そこであるべき自分の人生をうまく見つけるだろう。私は、それはそれで、当座の魔境の暮らし方だとも思う。

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