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カントの美的判断力

 我々の通常の判断力というのは、それが何であるか、ないし、何がそれであるか、を判断する。ああ、あれは犬だ、とか、6ミリのネジはこれだ、とか。あれは反則だ、とか、正しい対応はこれだ、なんていう実践的なものも、ここに含まれている。こういうのを、規定的判断力と言う。

 ところが、犬なのは重々わかっているところで、どれくらい犬らしいか、が、問題になることがある。たとえば、犬のコンテストのような場合。しかし、ここでは、まず、犬らしさとはなにか、を、よく思い出してみながらでなければ、どれが、どの程度、犬らしいか、などわからない。だから、これは反省的判断力。そして、まあ、犬らしいからなんだ、ということもないので、これは、目的なき合目的性、とも言われる。

 この背景にあるのは、プラトンのイデア論で、イデアという理想像に似ていれば似ているほど、ものは美しく、良い、という話があり、カントは、これに自分の美学を合わせたわけだ。

 しかるに、主観の認識しうる規定を超える壮大なものや強烈なものが与えられることがある。これらは、反省的判断力において、崇高、とされる。
 規定的判断力にしても、反省的判断力にしても、カントは、結局のところ、主観的なものだ。つまり、いずれにしても、自分の概念に合うかどうか、の問題にすぎない。

 ところで、初心者がカントで面食らうのは、この、主観的、というのが、個人的ではなく、人類普遍的、それどころか、宇宙普遍的、ということ。カントは、所詮、啓蒙主義者で、デカルトのように理性の普遍性を信じており、実際の主観性が多様であるのは理性を正しく用いていないからだ、と信じている。個人や民族の優劣なき多様な相対性が認められるのは、その後のロマン主義になってからのことだ。

 ただし、カントにおいて、いかに理性が宇宙普遍的であっても、ヘーゲルと違って、理性が主観の側の能力と考えられているところだ。ヘーゲルまで行くと、客観そのものが理性を論理として持っており、その呼応において止揚される、とされる。

 すなわち、カントの場合、批判主義(限界設定主義)として、理性は、その一歩手前で踏みとどまる。ここで出てくるのが、悟性の目的論的判断力であり、それは、実践における超越的な要請(仮説的前提)である、とされる。つまり、実践の必要上、さしたる根拠があるわけでもないが、自然そのものも合法則性以上の合目的性を持つ、と考えておくことにする、というわけだ。

 そして、自然は、有機的に、部分と全体の連関を持つはずだ、とされる。この考え方は、プラトンではなく、アリストテレスの形而上学に基づいている。よく、カントは、英国経験主義と大陸合理主義の折衷と言われるが、プラトンとアリストテレスの形而上学の折衷でもある。だから、後に、ニーチェのようなニヒリズム(イデアも合目的性も否定する形而上学)が出てくると、美学も、当然に異なるものとなる。

10/24/2009

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