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2.3. トーンジャンル

2.3.1. トーンジャンルと観客のオネイラ

 観客は、彼らの心が物語世界と共鳴しているときにのみ、ストリオパシーを示す。たしかに観客はトピックジャンルに知的に興味を持っているが、トピックは、結局、他の人の問題であり、彼らの関心は好奇心にすぎない。しかし、物語世界のムードが観客の気持に合うと、観客は好んでそれに没頭するだろう。 その物語世界のムードの種類が、トーンジャンルである。

 これは、観客が自分を特定のキャラクターに直接投影することや、観客が実際に置かれている状況を客観的に理解することを意味するものではない。これらは特定のトピックバリューである。物語世界の堅固な構造が観客の心の混乱を癒すならば、どんなトピックでも、心理的な共感は起こる。

 文明の発展とともに、我々は理性によって構成された概念枠組で物事を意識的に取り入れようとしてきた。しかし、現代的な論理の整合性に合わせることは、人工的イデオロギーである。我々のオネイラ(感性による深層心理体系)は、本質的に混沌と不条理に満ちている。現代的な論理に順応して生きることを余儀なくされ、我々の生活は、理性が解決できない現実世界の諸矛盾に苦しんでいる。それらは、我々を悩ませる心の中で昼間の悪夢になる。

 しかし、人工的な概念枠組と同様に、オネイラもまた、世界のさまざまなものを受け入れる生来の感性枠組である。それは多くの欠陥を持っているかもしれないが、それは物事、とくに人間性に関することを、理性よりうまく扱うことができる。

 それゆえ、語り手は人間のオネイラを対象化して多くの物語を作り、ミュトスと呼ばれる人類の巨大な文化遺産を構築し、我々はそれを継承している。というのも、それは現代社会において理性が​​見逃している物事を補助的に手当してくれるかもしれないからである。さらに、理性は、せいぜい既存の問題を解決するための手段にすぎない。我々の未来への願いは、オネイラからのみ生まれる。

 しかし、我々のオネイラは、あまりに不明確で不安定である。そのために、ストリイングは、それぞれのキャラクターのミストリアとして混迷する脈絡を対象化し、思考実験としての彼らの対為を通してテーマを吟味する。このとき、物語世界の人工的な整合性が、我々の弱った理性を支える。

 ミステリーを解き明かすことは、ミュトスの不完全さに対する管理的な保守にすぎないが、ストリイングは本質的に我々のオネイラを修復する。この目的のために、観客のオネイラのムードに合わせて、語り手は、まずそのぐらつきを直すために確固たる物語世界を提供しなければならない。


2.3.2. 世界公理システムとしてのトーンコード

物語世界は、ミュトスの一部である。ムード(トーンジャンル)が観客と同期しているとき、それはまた、観客のオネイラの対象化された部分でもある。したがって、物語世界全体は、その時の観客のオネイラトーンによって支配されるべきである。

 オネイラトーンには、ドラマトーン、悲劇トーン、喜劇トーン、不条理トーンの四象限がある。意識支配とアルカナ安定性の強さに関する二軸がこれらの違いを形成する。意識がオネイラをしっかりと支配していれば、その設定は平凡だが、そうでなければ、最初から異様かもしれない。オネイラのアルカナ14が安定しているとき、展開も論理的だが、それらが頻繁にひっくり返ると、迷走を強いられるだろう。

 観客のオネイラと同期する物語世界は、総体として同じオネイラトーンによって支配されている。つまり、物語世界で起こることはすべてそのトーンに従う、ということである。オネイラトーンは、物語世界の状況と因果にとって公理体系である。これをトーンコードと呼ぶ。

 ドラマトーンコードでは、状況は平凡で、因果は論理的だが、悲劇トーンコードの状況はそもそも異様である。一方、喜劇トーンコードの状況は平凡だが、因果は不安定である。さらに、不条理トーンコードによって支配されている物語世界では、状況も因果もまったく予想外である。

 もちろん、物語世界のキャラクターは、それぞれに異なるオネイラトーンを持っているかもしれない。その影響を受けて、同じ状況や同じ展開でも彼らは別様に解釈して、独自のミストリアを作り、それに基づいて他人の行動を理解し、独自の反応を返す。かくして、物語世界の中とキャラクターの心の中で、さまざまな葛藤が生れる。

 観客は一部のキャラクターを理解できないかもしれない。というのも、キャラクターたちもまた観客の物語世界に置かれていながら、彼らのオネイラトーンは観客のそれとは異なるからである。しかし、それらは、ミステリーとして、物語世界の魅力を高めるかもしれない。

2.3.3. ドラマトーンコード

 ドラマトーンコードの物語世界は、論理的な因果を持つ平凡な状況で構成されている。我々は、我々の現代の日常生活のトピックについて話すためにこのトーンコードをよく使う。キャラクターや状況はそれほど特徴的ではないが、なじみがあり、展開もまた現実的な範囲に限定されている。

 この世界では、どのアルカナも一般的に安定しているため、激変は無い。一部のアルカナがひっくり返ったとしても、世界はもともと問題を修復する秩序があり、やがて通常の生活に戻る。これは我々の現実に似ているが、そのコピーではない。これは、限られたキャラクターと場所で完結している。それは偶発性を排除するので、すべての展開はその限定された物語世界の物事のみによって合理的に説明されなければならない。

 この意味で、「彼らはその後ずっと幸せに暮らしました」と我々が物語の終わりによく言うように、それは我々の現実よりも問題が少ないかもしれない。しかし、なにも起こらなければ、それは思考実験の装置として機能しない。そのため、ドラマトーンコードの語り手は、同じテーマに係わるさまざまなエピソードを人為的に統合する。テーマの核心を問うような極端な状況に物語を駆り立てる悲劇トーンコードとは異なり、ドラマトーンコードは、テーマの姿を描き出すように、さまざまな方向からテーマを探究する。

 その姿をより明確に示すために、語り手は、我々の現代の日常生活よりも単純な場所に物語世界を設定するかもしれない。おとぎ話が、その典型である。それはややこしい大人の事情をすべて削ぎ落とし、それぞれのエピソードの論点を強調する。同様に、ドラマトーンコードの語り手は、温和な小さな町に物語世界を設定することを好む。それは最初から限られた人間関係と狭い生活圏しか持っていない。

 語り手は、エキゾチックな世界でドラマトーンコードの物語を展開するかもしれない。史劇(西部劇を含む)とファンタジー(SFを含む)は、一般に悲劇トーンコードで語られるが、これらはドラマトーンコードにも使われるかもしない。これらの世界は実際にはおとぎ話のたぐいであるため、学問的な正確さがある必要はない。これらは、ストリイングのための手段にすぎない。しかし、これらがあまりにもファンタスティックで、事実を逸脱するとき、これらはトピックバリューを損なう。


2.3.4. 悲劇トーンコード

 風変わりな状況やキャラクターがある物語世界は、悲劇トーンコードである。それは、キャラクターを危機的な状況に追い込み、そのテーマに挑戦させる。ただし、展開は論理的であるべきである。すべての可能なアルカナを次々と赤信号(悪い面)に変えて、語り手は状況を引き締め、キャラクターを追い込む。

 このプロットでは、語り手は、すでに最初に、風変りな状況またはキャラクターとともに、致命的な仕掛け(制限)をひそかに設定する。そうでなければ、日常生活の回復力が問題を和らげてしまっただろう。語り手のあらかじめの罠によって、アルカナは悪い面に向きを変えるが、二度と良い面には向かない。混乱、枯渇、喪失、行方不明、孤立などは、悲劇トーンコードの難破プロットを助ける。

 悲劇トーンコードの物語世界は、状況悲劇とヒーロー/ヒロイン悲劇の二つに分けられる。状況悲劇では、平凡なキャラクターが危険にさらされるが、ヒーロー/ヒロイン悲劇では、主人公だけが特異な理由で苦しむ。

 いずれにせよ、その世界はひどい方向にばかり落ちていく。悪意のあるプロットが目立つのを避けるために、語り手はコメディリリーフを投入するかもしれない。そのキャラクターはなにか良いことをしようとするが、皮肉みも結果はいつも悪くなる。こうして、語り手は、自分の責任を逃れ、それを世界の中のキャラクターに押し付ける。

 かつて、すべての悲劇は、結局、バッドエンドに至った。特別なヒーロー/ヒロインでさえ、キャラクターのどんな努力も、運命のねじれによって失敗した。悲劇的物語での思考実験の結論は、ふつうではない状況に近づくな、または、特別なヒーロー/ヒロインになろうなどと思うな、ということだった。悲劇的物語は、なにも起こらない平凡な生活の幸せに気づくべきだ、教えた。

 ところが、短調曲がピカルディ・カデンツ(並行長調)で終わるのと同じように、今日の悲劇は、ハッピーエンドになりうる。それどころか、今日の観客は、なんらかの救いの可能性を示すことを語り手に求める。悲劇的なバッドエンドはいまやクリシエであり、もしそうなら、その物語は見る価値がない。観客は、運命の中に皮肉な脱出穴を見つけたいと思っている。なぜなら、それこそが、彼らがすこしは知っているが、よくは知らないことだからである。

 とはいえ、語り手は、機械仕掛けの神(脈絡無き唐突な救済)を持ち出すべきではない。かわりに、語り手は、特別な条件が与えられたときにのみ開く、物語世界の穴を最初から設定する。それは、最も重要なアルカナである。それはとても小さいが、運命全体をひっくり返す力がある。


2.3.5. 喜劇トーンコード

 物理的なスラップスティックであろうと心理的なスクリューボールであろうと、喜劇トーンコードの物語世界では、キャラクターはアルカナの予期しない逆転に頻繁に巻き込まれる。その設定は平凡だが、因果は不安定で、次のアルカナがどちら側を示すか、だれにもわからない。

 これは、因果がないことを意味するのではなく、むしろ複数の因果があることを意味する。アルカナはもとより断片的で曖昧であるため、どれかの因果で独立してひっくり返える。かくして、キャラクターは、いつもだまされて、パニックに陥る。

 複数の因果を備えるために、語り手はしばしばフュシス/ノモス・ギャップを使う。フュシスは本質的に物理的な因果であり、ノモスは慣例による社会的な因果である。たとえば、『独裁者』のように、独裁者であるはずの男はじつはあわれな床屋だが、床屋は本物の独裁者よりも鋭い演説をする。

 喜劇トーンコードの場合、語り手は主観的なキャラクターのミストリア・ギャップを使うかもしれない。それぞれのキャラクターは同じ状況をまったく異なって解釈するが、彼らの会話と行為は不思議なことに調和していて、しばらくはうまくいく。観客だけがそのギャップを知っていて、彼らの不調和なやりとりと最後の崩壊を笑う。『真夏の夜の夢』は、そのような混乱である。

 複数の因果関係が、立体的に進むかもしれない。明らかに異なる因果が対立しているが、別の寛大な因果が両方を吸収し、なにも起こらなかったかのように摩擦を解決するとき、我々は賞賛をもって賢明なユーモアギャップに笑みがこぼれる。『ヴェニスの商人』のポーシャは、その一例である。

 我々、すべてを知っている観客にとっては、これらのギャップが物語を喜劇的にするが、物語世界の中のキャラクターは本当の状況を理解できないため、その結末は、だれか(たとえば、シャイロック)にとって悲劇的かもしれない。それゆえ、観客がそのような不幸なキャラクターに共感するならば、そのような物語は悲喜劇と呼ばれる。

 複数の因果関係があるため、喜劇的な物語世界の展開は、混迷していく。それゆえ、ドラマや悲劇のトーンコードとは異なり、テーマにエピソードを集中させることができないかもしれない。しかし、混迷は、遠心分離機のように、我々が固執してきた多くの些細な問題を振り払うので、本当に大切なものが最後に残る。『街の灯』では、放浪者は盲目の少女の自分のイメージを維持しようと必死に百万長者のふりをする。しかし、彼が何であるかは、最後にはどうでもよく、唯一大切なのは、それこそが彼だった、ということだけである。


2.3.6. 不条理トーンコード

 不条理トーンコードに基づく物語世界では、設定だけでなく展開も奇妙である。それは悪夢のようなまったくの混乱かもしれない(たとえば、『不思議の国のアリスの冒険』)。因果のない怪物がそこに登場するだけでも、健全な世界はかんたんに破滅しうる。(たとえば、『ペストや『宇宙戦争』)。怪物が現れる状況は、そもそもすでに奇妙で、因果全体が不条理な怪物によってかき回される。

 不条理な世界には安定した因果が無いので、アルカナはいつひっくり返るかわからない。しかし、このことは、アルカナが頻繁にひっくり返るという意味ではない。その頻度はおそらくスラップスティックやスクリューボールコメディよりも少ないだろう。重要なのは、キャラクターが世界の不安定さを知っていて、つねに不安である、ということである。

 不条理トーンコードは、平凡なキャラクターが突然に異様な状況に投げ込まれ、重大なトラブルや敵との対峙を強いられるという意味で、悲劇トーンコードに似ている。悲劇トーンコードでは、状況や敵があまりにも馴染みがないため、キャラクターは最初はそれらを理解できない。しかし、彼らは因果的に首尾一貫しているので、キャラクターは、ついにはミステリーの開示として、彼らの理由を見つけるだろう。一方、不条理トーンコードでは、キャラクターはフーダニット(最初の原因または犯罪者)を解き明かすことができるかもしれないが、最初から最後までどこにも因果が無いため、エンディングでもワイダニット(それらがそれをした理由)を知ることはできない。

 ほんの小さな怪物でさえ、世界の秩序を断ち切り、ついにはその全体をめちゃくちゃにするかもしれない。キャラクターは、自分たちの平凡な日常生活を取り戻す、または、落ち着いた家に帰ろうとするが、混乱はますます悪化し、我々が当たり前と思っている常識や日常生活が試練に晒される。彼らはなにかを選び、他をあきらめなければならない。かくして、最後には、命の賭しても守るべきものだけが残される。不条理トーンコードの思考実験は、製錬炉のように機能する。

 我々が我々にとって最も大切ななものを見つけることができるとき、物語もエンディングに至る。主要キャラクターが最後まで保とうとするものが、無秩序を終わらせるための鍵となるはずである。しかし、トラブルの発生が唐突だったように、その解決もまた、それほど合理的ではないかもしれない。いずれにせよ、それで、キャラクターは最初の原因または怪物を倒し、穏やかな故郷に戻るか、荒廃した生活を再構築し始める。それはしばしば「アフターパニックパラダイス」と呼ばれる。


2.3.7. コミュニケーションの場としての物語世界

 語り手は、観客の興味や好みを、トピックジャンル、オーサージャンル、トーンジャンルとして事前に考えなければならない。ストリイングが以前のように観客と顔を合わせて行われたならば、観客の反応を見ながら、語り手はトピックやトーンを調整できただろう。しかしいまや、それは語り媒体を通じて行われるため、物語を作る前のプレマーケティングとして、それどころか、エクストリイング段階で、語り手は、彼らが語ろうとしているが、まだ彼らの前にいないターゲット観客の存在を想定する。

 ストリイングはコミュニケーションである。これは、観客が見たり、理解したり、考えたりする積極的な協働が必要であることを意味する。したがって、コミュニケーションの場として、ターゲット観客がみずから参加し、好んでその語り手のストリイングに参加したくなるほど、物語世界は非常に魅力的であるべきである。

 しかし、観客を集めるために、どの物語世界も互いに似てしまうかもしれない。本来は語り手が話し合いたいテーマに応じて適切なターゲット観客を選択し、その観客に最適な物語世界を設定すべきである。ところが、語り媒体の制作がいまや大規模で高価になって、人気のトピック、有名な作家、流行のトーンの似たような物語しか作られない。というのも、それらしか、投資を回収できないからである。

 さらには、本来の物語の意味を忘れ、語り手はいまや儲かる物語ばかりを作る。彼らは、的確なマーケティングで大金を稼ぐかもしれないが、その内容はテーマの無いたんなるミステリー解きにすぎないことがよくある。それらは、圧倒的な広告で、実際に多くの観客を魅了するが、それらは、遊園地の装置のような緊張と興奮を観客に与えるだけである。結局のところ、観客はそのプロットさえ思い出せないかもしれない。

 物語世界は、本来、オネイラでの我々の問題を対象化し具体化するための手段にすぎない。我々人間はオネイラを共通に持っており、それは社会生活における我々の人間性の下部構造として機能するので、我々はそれを不必要に刺激して弄ぶべきではない。我々はむしろオネイラを吟味し洗練すべきである。この目的のために、対象化された物語、議論と考察のためのストリイングは、有用である。ただし、有効な物語は、問い尋ねるべきテーマとそれに近づくためのプロットを持つべきである。それゆえ、我々は次にプロットの解明と物語の構築に進む。

14. アルカナは、対象化された受動機である。感性は、さまざまな受動機、外界の動機の存在を知る能力から成る。(外界の刺激の無い)純粋感性の受動機が対象化されるとき、それらは我々にアルカナとして認識される。ユンクのタロット研究と元型を参照せよ。

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