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コスモファージ

 宇宙喰い、のことだ。だが、SFの話ではない。ソンタグ(ゾンターク)のサルトル批評として出てくる。

 サルトルは、ジュネという最低の俗物に執着した。サルトルに言わせれば、彼がまさに実存的だから、だそうだ。あれと思えば、これになり、これと思えば、それになる。次から次へとメタモルフォーゼを繰り広げ、とらえどころがない。そのとらえどころのなさをとらえようとしたのが、何の役にも立たない長大なサルトルの評論。

 ソンタグは、これをコスモファージと呼んでいる。人肉喰い(アントロファージ)の意識版。その人の世界観を丸呑みして、自分のものであるかのようにしてしまう。そう言えば、知ってか知らずか、『千と千尋』に出てくる顔なしも、なんでも喰ってしまう化け物だった。

 彼女の別の論文では、レヴィ=ストロースによる批判を踏まえて、サルトルを、ヘーゲル的なホット・ソサエティ、とも呼んでいる。それは、自分を他人においてしか発見することができず、絶えずそれを呑み込み続けて「進歩」しなければ死んでしまう。それは、ナポレオニズムであり、大英帝国であり、ナチや八紘一宇の発想だ。

 そのような社会の根底には、このようなコスモファージの哲学がある。サルトルが自覚したように、そのような国、そのような人物は、存在しているだけで、何者でもない。空っぽの化け物だ。自分のものがないわけではないのだろうが、なんの価値もない。

 それにしても、サルトルに限らず、このコスモファージな学者や評論家というのは世界中にいる。虎の皮を被ったキツネ、というのならまだしも、その中はまったくの虚無だ。いくら他人を喰っても、それはどれも自分ではないから、絶対に満たされることがない。

 なぜサルトルはジュネに惹かれたのか。それは、ジュネが俗物だったからだろう。サルトルもまた、とんでもない俗物の柄でありながら、柄だけの空虚であるがゆえに、真に自分が俗物になりえない。もっと簡単に言うと、口先だけで、俗物としての行動が伴わないやつだ。俗物になりきれず、つねにインテリのふりをしている。だから、実際に行動した俗物を飲み込んで、さも自分が行動しているかのような気になっていた。

 なぜサルトルは空虚なのか。彼は、人はみな自由であるべく呪われている、と言う。が、それはあんただけだろう。たいていの人は、むしろハイデッガーの言うように、生まれた時から、わけのわからない他人の愛憎のしがらみの中にあり、その中から自分の可能性を紡ぎ出す。その与えられたものこそが、それぞれの人の出発点とならざるをえない。

 サルトル的な空虚は、おそろしく恵まれていながら、だれにも愛されていない、まさに空白から生まれてくる。だれにも愛されたこともなく、愛されることもない。それは、容貌や性格のせいではない。もとより、その人として愛されるべきもの、その人となりそのものが欠けているから、他人がそれを愛しようがない。

 それで、この空虚は、同性愛だか、自己愛だか、倒錯に走る。ナチス的社会体質とサルトルの親縁性は、フロムやアーレントなどを参考に、もっと哲学として問題にされてもよいはずだ。その一方、「権力意志」を唱えて、ナチスの元になったと言われるニーチェは、むしろ対極にあるのではないか。

 権力意志というのは、まさに自分が乗っ取るのであって、強烈な自我があってこそ成り立つものだ。しかし、サルトル的に、自我というものが虚無のまま、他人のあれこれを雑多に吸収していっても、結局、ゴミ屋敷のようなものにしかならない。それぞれの道具は、その本来の所有者の下において、生活連関をなしているのであり、それをかき集めても、自分の生活連関にはならない。それは、過去の無いレプリカントが、人々の思い出の写真を盗み並べて、自分の生きた証にしようとしているようなものだ。

 興味深いのは、オタクだの、ヒッキーだのという連中、そして、学者学の学者たちが、まさにこういう性向を持っていることだ。女性の下着を盗み集めてきて、自分で着用する、というのと、アニメの物語の中の細々な登場事物を自分の部屋に飾るのと、他人の学説を寄せ集めてきて自分の本の中に語るのと、じつは、まったく同一種類の変質者だろう。自分の世界でないものを自分のものであるかのようにふるまう、という意味では、下着も、玩具も、学説も、なんの違いもない。 

 こうしたことは、先述のように、ある特異な、恵まれた不幸においてのみ起こる。恵まれた不幸、というのは、なんでも手に入るのだが、もっとも肝心なもの、その人であることを与えられないことだ。

 ソンタグが興味深いのは、レヴィ=ストロースを構造主義者としてではなく、構造主義の哲学者と見なしている点にある。すなわち、彼は、構造主義的であることによって、ルクレティウス的な安心立命を考えた、と言う。奇妙なことだが、この方が、「無意味なものが永遠に」というニーチェの哲学に近い。それは、何も始まらず、何も終わらない、自分というものさえも、未来永劫に繰り返す波の中の一つの波頭にすぎない、という、クールな世界観だ。

 他者を貪欲に飲み込み続けて、とどまることのない進歩を渇望する飢えた空虚な自我は、壮大なゴミ屋敷と同様、その呪われた生き霊としての死とともに、おぞましいものとして解体され、なにも残さない。

 じつは、昨今、本の整理をしているのだが、古い評論家の本は、真っ先に処分箱行きだ。原典とその関連はとっておくが、ごちゃごちゃと人の本を解説をしたものなど、読み捨て以外のなにものでもない。その時代には、大きな顔をしてのし歩き、大きな声で怒鳴り散らしているが、しばらくすると、結局、何者でもなかったのが露呈する。

 根本的なことを言えば、日本という国が、欧米のコスモファージで出来ている。明治維新とは、廃仏毀釈とともに日本そのまでを切り捨てて、そこにヨーロッパを接ぎ木したものであり、戦後はそれをアメリカにすげ替えた。容易にアメリカ化できたのは、それ以前に、つまり戦前から日本などというものを持っていなかったからだ。

 いや、和魂洋才があった、などと言うかもしれないが、この「魂」という言葉自体、ドイツ語のガイスト(精神)の訳語として用いられている。というのも、日本の発想では、魂は、個々の祖霊につながることはあっても、民族としての魂などというものは、江戸時代にすら存在していない。

 たしかに「大和魂」という言葉自体は、『源氏』や『今昔』にも出てくるが、ドライで論理的な「漢才」に対して、細やかなヒューマンスキルのことを意味しており、民族精神などというものは、考えもしなかった。だいいち、当時は、雲上人と廃物をむさぼる餓鬼とが、同じ京の中にいても、同じ人間だなどとは思いもしなかった時代のことだ。

 つまり、和魂洋才という発想は、日本人などというナショナリティの結果であり、そのナショナリティなどという発想そのものからして、日本のものではない。実際、百済人だの、唐人(中国・韓国~イラン人)だのが、そこらにごたまぜに住み着き、その一方、藩境では日常的に小競り合いを起こしているような連中が、同じ日本人だなどと思っていたわけがない。

 このように、欧米を喰ってしまった、ということは、とりもなおさず、その前から日本などというものが無かった、ということを意味している。京都や奈良に見られるとってつけたような日本趣味は、フェノロサをはじめとする外国人趣味をも日本人が吸収した、ということであって、日本趣味そのものからして日本のものではない。

09/28/2009

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