死よりも恐れていること

ここひと月ほど気管支炎か喘息っぽくて、ふとしたはずみで唾液を誤嚥しては窒息しかけている。
私の場合、むせだすとすぐに鼻が詰まるので鼻呼吸もできなくなり、喉も濃い痰が絡むので、咳の勢いで息を吐くことは出来ても吸うことがほとんどできなくなるのが怖い。

この症状自体は中一の春に発症していらい、数年おきに思い出したように出るので、経験からなるべく落ち着いて(といっても吸うことががほとんどできないところへ、咳で強制的に吐くことだけはさせられるのでかなりパニックにはなっている)手近のタオルやティッシュで口の中の粘性の高い痰をマメに拭いながら、ヒューッ、ヒューッと全力で細い吸気をする。(咳に全集中するので、痰を自力で吐き出せないのだ)
しかし全然酸素は足りないので、こういう時のために買い置きして手近に置いているスポーツ用の酸素スプレー缶を口に当てて、咳の合間になんとか細い息でも酸素濃度は補えるようにする。

とはいえ、なかなか回復しないとそのうち手足が痺れて痛むようになり「もしかしたらこのまま死ぬのかもしれない」と思うことが何度もある。
しかし、酸欠で気を失うなんてことはなく、とにかく窒息の苦しみで意識は鮮明なのが地獄である。

比較的早期に呼吸を立て直しやすいのは、身近な人間に背中の真ん中を痣になるくらい思いっきり叩いてもらうことなのだが、常に家族がいるわけではないのでこれもなかなか難しい。

娘は、幼いころからそんな私の症状を見ているので、ちょっとでも激しく咽こむと「大丈夫?背中叩く?」と心配そうに訊いて来てくれたのだけれど……。

娘が亡くなって以来、正直もういつ死んでもいいや、とは思っているものの。
それでもこんな、断末魔まで虫のように手足をバタバタさせて苦しむようなのはヤダなと考える我儘さ……。

そして、いつ死んでもいいや、といいつつ未破裂脳動脈瘤が見つかったので7月に開頭手術をするのだけれど、低い確率とはいえ後遺症で今までのような生活ができなくなる可能性がある事を考えると、それは死ぬよりも怖い。
夫や息子、妹などから、最初こそ憐れまれてもそのうちお荷物になり、疲弊しまくった彼らに内心「なんであの時死んでくれなかったんだろう」と思われるようになるのが怖い。

………これは、ある意味自分へのブーメランだ。
娘がお荷物になってどうしようもなかった時の自分の感情が自分に返ってくるのを恐れているのだ。

なんて勝手なんだろうと思う。



余談

現在、呼吸器がこんな感じなので泣くこともできない。
泣き始めると鼻が詰まって喉がヒューヒューいいだし、簡単に吐き出せない、粘度の高いドロドロの痰が大量に沸いて上記のような発作が起きかけるので。

なんだか娘に「もう泣くな、うざい」と言われているような気分だ……。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?