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エウロパが好き

 私のことばは私と等身を同じくしてるって書いたけど、等身どころではないかもしれない 私は書かなきゃ意味が無い 私の定義の中に書くことが含まれてる だから書かなかったら私じゃないしわたしは私じゃないなら好きじゃない 違和感のある体に入り続けるのって本当に苦痛 血が、捉えがたい圧迫感のある感覚になって体の中をぐちゃぐちゃに暴れ倒している がんがんすり減っていく すぐに手が出そうで内側からも外側からも殴りつけてないとだめってくらいになる もっと自由で変化でいたいのにって思うから尚更殴りつけが必要になる
 てか、「書かなきゃ」って思うのに書けないのって、「生きなきゃ」って思う(生存欲求は本能的なものだから思うって自覚することないだろうけど)のに死ぬのと一緒だ 辞世の句を読めないから死ぬことより辛い 好きな人に好きだよって書くことも出来ないから死ぬことより辛い 書くという行為も書かないという欠損があって始めて認識されるものだし、生きるという行為も死ぬという損失があってはじめて認識される そんなこと誰だって知ってるけど
 わたしは不老不死だから死なないし、けど死がないから生きてもない 生きてもいないけどとりあえず存在はあるから、生きる以外の本能がないと生き物っぽくないよねってことで、書くことが本能的だ 前に誰かに「あなたの文章に野性を感じる!」と言って貰えたけど、それって多分私がそれを本能でやってるからなんだと思う ひとでなしでも心做しかひとでなしでも体と理性を備えてるから、だったら本能もなくちゃいけない 理性と本能もお互いがお互いを定義しあっている どちらかだけがあるなんてバランスはない 絶対にどっちもあって、使うか使わないか(もしくは使えるか使えないか)は私の好みだし他人の好みだからそっからは知らない でも私はそれを絶対に使うし絶対に使える だからわたしは理性的に書く 絶対にロジカルになるように組み立てて作戦組んで裏とって書いて消して裏切ってってする 絶対に理性じゃないとできないことを絶対にやれるようにしてる それが絶対のルールだし格率じゃなくて法則だ 時間と空間にしばられない規則だ 私がそう認知してるから規則になって、規則がわたしを形作るから、わたしは私だけでは成り立たない 外付けのアクセサリーと理性と本能と規則がないと私って呼べない 私わたしって連呼してるのも全部ちゃんと規則持ちだから、安心して欲しい 嘘ついたことないって言ったら嘘は無いし、嘘しかつかないって言ってもうそはない

 書けないってことだって書けるし書けるってことはずっと前から書いてきた 私の宇宙のルールの話だって仕組みだって書いてきたし、けどずっとネタ切れはこない 私が不老不死を治せない限りネタは切れない 人が死を回避できない限り増え続けるのと一緒(増え続けると言っといてあれだけど、もしかしたら人って死を回避できないから滅ぶこともできるのか いいな〜)
 もちろん私は規則遵守だから真剣に話すし真剣に書く だから、規則に乗っ取った純度の高い真剣な文章が永遠に生み出される これをずっと見続けられたらいいのにってわたしでも思う 自分の対象化なんて造作もないけど、それは思考の話で、他人称の目を借りれない限りは本当に見続けることなんてできない わたしがこの文章をいちばん理解してしまうから、そりゃそうの連続でしかなくて、もっと新鮮に難解に面白がれる他人称が羨ましい 理解した時の整頓された面白さは私独占じゃないし、けど他人称由来の面白さは他人独占だから、どうにか出来ないかな
 モネが晩年に描いた睡蓮には程遠いけど、こうやって出来たんだってわかった こんなヒリヒリしないとやっぱりあんな感じに見えないよね でもわたしはこのnoteをあんなグロさを備えてるとはあんまり思わないから、これからもっとヒリヒリして筆を握りしめることしかないと思ってる もっと数年前の自分をめちゃくちゃ呪い殺すくらいになんないとなぁってのんびり 楽しくなってきたから余裕

 こうやって書いてたら体調良くなってきたし、爆発しないでよかった! うわぁ書きたいことがどんどん逃げていく!って感覚が戻ってきた 楽しくなってきた 私が(書きたいことを忘れていくのは普通に不快)

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