基盤とか生まれの話

 まず最初に書いておかなくてはならないのは、今からつらつら書かさせてもらう話は一個人の一つの考え方であり、何にも参考資料なんてない、言ってしまえばアドリブマシマシの文書であるということだ。要するに話半分に読んでほしい。

 ある一時方言というものに多く触れる機会があった。偶然に日本各地から生徒集まるような大学に入り、そこで多少そうしたものを囓らせていただいたのだ。
 当然ながら、生徒の話す言葉には方言が混じる。いかに共通語チックでもアクセントやちょっとした語彙に地方味が出て来たりということもあったし、頭から方言感が前に出ているような人もいた。今思えば随分と混沌とした場所であったのだなあ、なんて懐古してしまう。
 ところで私の親戚には九州出身の男の子がいる。その子がいっちょ前に物を言うようになった頃に私は会ったのだが、そこでその子は唐突に、
「じゃろじゃろ言っとーと!変なの!」
 と宣った。
 私はお察しかもしれないがゴリゴリの広島弁話者である。なのでまあ、彼の言うことは至極全うであるし変なの、というのもむべなるかなという感じだ。しかしブーメランの感は否めない。可愛らしいのではあるが、ごりごりの福岡方言で広島弁をdisられている。いや素直な感想なのだろうけども。
 しかしここまで露骨ではないものの、こうしたことは案外あるのでないだろうか。つまりは、自分の触れている文化こそがメジャーであり平均である、という認識である。
 方言が方言であると認識しても、そもそもその方言をスタンダードとして育った人間は、まず方言と共通語の線引きが出来ない。私も長らく布団は「敷く」ものでなく「引く」ものであると思っていた。普段の広島弁こそが当たり前のスタンダードと認識していた訳だ。確かに広島ではスタンダードになり得るかもしれないが、残念ながら、視野を広げて日本全体を基準とすればそれは一地方のみのイレギュラーとなる。
 しかし私たちは、案外そうした一部でのスタンダードを全体のスタンダードと誤認識しているように思える。今回は分かり易いので方言を引用したが、こうしたことは何にだって当て嵌まる。例えば紙の本と電子書籍。小説への記号の台頭。挙げていけばキリはない。
 どうしても平均、当たり前、という主軸は存在する。認識には基準が必要であろう。しかしそれはあくまでも一人の人間の中の主軸でしかないのだと思う。生まれてから育って来た環境の中で固められる基盤だ。だからこそ、その人の中ではスタンダードでも、他の人に取ってはマイナーということはごく当たり前に起こる。それは決して悪いことではない。
 ただ残念なことに、その一個人のスタンダードを全体のスタンダードとして振りかざす人もいるように感じる。勿論、主観を完全に排除することは出来ないだろう。一個人のスタンダードを振りかざす人にも理由はあるのだろう。だけれども、少なくとも私はその一個人のスタンダードの身の程を弁えて色んな人の様々なスタンダードに好意的に触れてみたいと思う。
 だってその方が楽しくはないだろうか。

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