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わたしの(たわいもない半生からみた)自分探し論

カエルもトカゲも全然さわれます。



物心つくのが極端に遅く、同級生とくらべて精神的に幼かった私は、中学生になっても小学生みたいなことを面白がって、高校生3年生になっても中学生に間違われていた。


大人っぽい子たちやコミュニケーションの上手な子たちが上位に位置する学校のヒエラルキーの中で、ともすると忘れられてしまうような存在感の希薄な女の子だった。
誰かとすれ違うときに、ちゃんとノリよく軽くポップなやり取りが交わせるか異常にプレッシャーを感じていて、廊下でクラスメイトとすれ違うのが気が重くて移動教室はいつも走っていた。
みんなが上手に眉毛の手入れをし始めても、眉毛をどうやって格好良く整えるか知識がなく、興味もなく、それでもある日カミソリで触ってみたりして、案の定おかしな眉毛になって、次の日元気一杯の一軍と呼ばれる子たちに「眉毛を見せろ」といって廊下を端から端まで追いかけられたこともある。


そんな感じで過ごした中高は女子校だったので私は男の子に免疫がなかった。大学では、中高でやっていたのと同じように親愛の情を込めて男の子に「なんなんそれ、きんも〜〜」と言って、ひかれた(というか、傷つけた)。
女友達と接するのと同じようにやっていたらダメなんだな、とド下手くそな学習をして、さらに私の道はさらにぐねぐねと複雑怪奇に迂回を始めていく。

サークルで先輩が卒業するときに、女の子がみんな泣いていると、頑張って涙を流そうとしたり、スノボ旅行に行って、ロッジに大きなクモが出たときは怖くないのに怖いふりをした。
一生懸命「キャー!」とか言って、
ゴキブリ以外怖くないのに。

どうしてそんなことをしたのか、どうしていつも同化しようと努めてきたのか、はっきりと説明できないけれど、そうしないと認めてもらえないと思い込んでいたんだと思う。


今振り返ってみると、「女の子らしい」ふりをしていた時でさえ、彼氏が欲しいとも思っていなかった、というよりも彼氏の定義さえ頭にない未成熟な状態だった。それでも周囲と同じように、好きになったり好きになられたり、ステップを踏むことを最も重要な課題だと思い込んでいた。
ほんわかして優しくて「女の子らしい」子のことを、「かわいい」という男の子の声を聞いて一生懸命擬態しようとした。そうしないと落ちこぼれると思っていた。


その頃の私は生きるのがつらかった。

自分の声が嫌いだった。
時々はとても高くて甘ったるく媚びていたり、時々は低くてドスがきいていたり、どっちが本当なのか、どっちも嘘なのか、録音された自分の声を聴いた時は気持ちが悪くて恥ずかしくて、たまらなかった。

自分のセンスが嫌いだった。
服装のスタイルもころころ変わり、雑誌で勉強して髪を巻いてスカートにヒールを履いてみたり、上手に古着を重ね着をしているおしゃれな友達を丸ごと真似てみたり、ずっと、ただ服を着るのに「何が正解なのか分からない」と思っていた。


何かにつけて分裂気味な自分のことがどうしても好きになれなかった。

そんなコンプレックスが服(しかも人マネの)を着て歩いているような状態だったので、友人はいても、「みんな友達でいてくれている」という卑屈な観念を心の底で強く持っていて、受け身なのは今でも変わらないけれど、「自分なんかと」というのはとてもナチュラルな本音だった。

今は、そんな状態を抜けて、生きていること、自分でいられることに感謝できるようになったわけだけれど(いまだ生きることは下手くそではあるが)、変化はどうして起こっただろう。


はっきりと自覚するターニングポイントがひとつある。
24歳の時に、初めて仕事を辞めるというドロップアウトを選択して、あるコミュニティに参加したことだ。

そこには私のようにドロップアウトしてやってきている人もいれば、学生や社会人の休みを上手に利用して賢く時間を使って参加している人がいたり、学校に通う代わりに訪れている子もいたし、色々な事情からすべてをリセットして逃げこむようにして参加してくる人もいて、年齢もバックグラウンドも、コミュニティへの参加の理由も、てんでバラバラのカオスだった。
私はそこで、これまでの人生で私が出会ってきたのが、ほんのひと握りのとても少ない人間パターンだったということを知った。
そして、人間の魅力の可能性がこんなにも幅広く深いものだということを学び、それを学んだことで「私なんか」の中に価値を見出してくれる人がこの世にいるということを、ようやく素直に受け入れられるようになった。

それから、本当はそんなに単純な話なわけではないけれど、体感にすると、黒から白へ、闇から光へ、私の人生は変わった
(下手くそにな生き方ではあるけれど)。

どんな服装をする自分が好きか、
居心地がいいかを冒険しながら探すことの楽しさ。
まだ眠っている私の中のオリジナリティに
沢山の水と光を与える幸せ。
それぞれの性をリスペクトしながら異性同性関わらず
人間対人間の会話をすることの上質な刺激。
好きなことを好きだと隠さず明言し、
その好きなことをどこまでも追求しては、友と分かち合う喜び。

そんなすべてが私の目を開かせてくれた。遅い気づきだったけれど、24歳の選択がなかったなら、レールをはみ出ることをせずに生きていたなら、私の目が開かれることはあったのかどうか、不安に思う。
怖いのは情報は本やメディアに溢れているのに、それが自分の手の届くところにあることにさえ、その時の私には気がつけなかったことだ。

若くして、自分を知り、個性豊かに生きている人たちは沢山いて、私はそんな彼らを尊敬し、魅力を感じ、少しの嫉妬さえ感じるけれど、一方でまだ本当の自分に気がつけていないかもしれない人には声の限りにエールを送り、同時に伝えたい。
自分を好きになれずにコンプレックスに塗れて生きている瞬間は決してただの時無駄にはならないこと。それらすべての瞬間が優しさとなって自分の中に生き続けるということ。

もしも今、生き辛さを感じるなら、
自分のことを好きだと思えないなら、
自分の中に原因を探すことに疲れたなら、

「自分探しに意味はない」と世間ではそう言う人もいるけれど、
今いるこの道が自分の歩ける唯一の一本道だということが、
思い込みかもしれない可能性について、
じっくり考えてみたっていいだろう。


広く広がる世界に目を向けてみるのもきっといい。



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