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まんまと自分語りする場所

ちょっと前に流れて来たツイート

まんまと自分語りをしてたわけですが。

そもそもnoteって「堂々と自分語りができる場所」だったんだなと。

ブログだとアクセス数や広告で稼ぐために大勢に見られなければいけない=大勢が求めてる情報や話題について書く必要があるけど、noteは別にそういうのなくて、「私」というコンテンツに興味を持ってくれたなら課金するともうちょっと深いとこまで提供しますよ、みたいな。

これを書こうと思った理由は、とりあえず僕も最初はここは仕事とは別で、作家として創作に腐ってた時期にそれに頼らない日常系の、作風と切り離した日記みたいなものを載せるリハビリ場所として使い始めて、途中で動き出した仕事部分と合流したんだけど。

SNSの使い方としてどうしてもフリーとしては宣伝広報というか、社会との接点として発言する以上、ある程度の自己校閲をしています。そこまで本音は書けない、とまでは言わないけど炎上くらいは避けるよう心掛けるし、個人的なことを書くにしても公にしていいこととかとは区切るわけです。例えば子供の顔写真は載せないとかね。

で、使い分けとして僕はFacebookを友人限定にしてて、これはもともとアメリカで仕事をしたときに関係者に誘われて登録したので、申請する外国人が誰が誰だか覚えてないけど当時は全部承認してました。その後国内の同業者などある程度面識がある人からも申請が来て、自分もそういう内輪になら通じる話としてちょっとクローズな使い方をしてたわけです。

そうするとFacebookの特性上同窓生とかに見つかったり、一度顔見知りになった人とかを承認することで、いわゆる仕事上の広報的な顔の見えない相手に対する公としての顔とは違う部分がメインになってきました。それこそ子供の写真とか場所が特定できる近況なんかも、これはもう海外の人には知られたところでわかんないしって感じで使っていました。だから海外のファンぽい人はもしかしたら昔仕事で関係した人かもしれないからOKするけど国内だと知らない人は入れない感じになってます。

そんで、なんでこの話になったかというと、だから公で言えないけど仕事上の状況とか、わりと飲み屋でなら話すくらいのことでちょっと長めの自分語りをしてしまったのです。そっちで。結構マジメな、同業者なら分かる仕事上の誰もが悩むところの話というか。コロナ禍でそういう話ができないストレスもあったかもしれません。

そしたら最初についたレスが

「長いwwwwww」

でした。

つけたのは、中学時代の同級生で全く違う人生の人。

そこで気づきました。だからFacebookはキラキラした近況しか書いちゃだめなんだと。

一気に40代から中学の教室に引き戻された感じでした。仲間内で話してたら通りすがりのイケてるグループの人が絡んで茶化してくる感じ。

全然悪気がないのは分かるんです。そして自分の精神年齢をコントロールしながら創作モードにダイブしてる仕事なのである種のスイッチのありかを知ることもできたし、社会経験のなさも、いや通常の社会人て常にこういう状況を経験してるんだなということにも気づかされました。そして自分がリアルでは決して別業種の人に腹を割って話さない理由も。思い出した。通じないんだ。そうだった。

(ちなみに昔の同級生でも親友クラスなら本音を話すし向こうも茶化したりはしてきません)

それでもうFacebookに本音を書くのやめちゃいましたね。桜が咲いてきれいだったくらいの話題しかいらないんだ、それが現実社会なんだと。ある種の多様性というか、全然違う世界で生きてる人間と交わるにはそれなりにルールがあると。顔が見えるからこそのルール。それは気に入らないからブロックとかできない。違う世界に生きる人と当たり障りのないコミュニケーションをとる技術。

その経験があって、じゃあそういう他人には通じないかもしれないけど言葉にしたいことを安心して書いて、全然興味ない人は来なくていいし、興味ある人が読んで共感してくれたらうれしい、その関係を築ける場所がnoteだったんだなと思った次第です。

じゃああの話をここで書けばと言われると書けない話なんだよね…。飲み会なら話すよ、でも相手は選ぶ。

という自分語りでした。


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