そして漫画家になる

今回でマガジン完結になります。漫画家になったから。

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そういえばこのとき21世紀になっていた。2000年の話。

二月に退社手続きをしてすぐ出られるよう三月にメキシコ行きのチケットを買っていた。前に四週間ヨーロッパ放浪で最後疲れたので三週間にした。英語がワンツースリーもろくに通じず途中からスペイン語を少し覚えたが、自分の生命力の自信にはなった。生きるだけならたぶんなんとかなる。

すぐは漫画を描く予定はなかった。特に描きたいことも思いつかなかった。昨年末に描いたトガリの読切ネームも編集の反応がいまいちで、少年サンデーで新人が載るチャンスはもうなさそうだと感じていた。社内の雑誌移動はトラブルになると前に言われたので別の会社の青年誌、最初に上京を考えた時のヤングジャンプに投稿から始めようかと考えていた。

以前担当が青年誌に移動になったときに描いた時代劇の読切ネームが、史実と虚構を織り交ぜて展開できそうだなと思っていた。もともとデビュー作も時代劇だったが知識が圧倒的に足りずファンタジー時代劇だったので、時代背景をこつこつ調べていた。会社員時代も図書館で資料を借りては会社でコピーし、月一の発熱有給で江戸東京博物館に行ったりしていた。年代もこの一年と決めて、同時代に生きた人のことを調べていた、浮世絵や紙出版、版元の話。平賀源内から山東京伝、蔦谷重三郎に若き北斎、無名時代の滝沢馬琴に式亭三馬、時の火盗改めは鬼の平蔵。そんな時代のマスコミ・瓦版屋をテーマにしようと思っていた。当時は戦国時代と幕末くらいしか時代劇もないように思えて、漫画のルーツと重なることもまた面白かった。

会社員時代に自炊生活でほぼボーナスも使わず生活してたので200万くらいは貯金があった。一年くらいは暮らせるかと思った。失業手当が出るかもというのでハローワークに行ってみたが、できそうな仕事はなかった。グラフィック・デザイナーということで印刷系を紹介されたが電話で聞いてもゲームと印刷業は違い過ぎて向こうが求める技能が何一つ自分の経験になかった。ハローワークはなんとなく興味本位で入れる空気ではなく、何よりアピールのための無職は退屈だった。外の世界と触れないとヤバイ。

会社員の時点でまだ携帯も持ってなかったが、本当に誰ともつながりのない人間になりそうだったのでPHS(携帯電話の廉価版みたいなの)を買った。集合に遅れそうになった時なんて便利なんだろうと初めて知った。会社の先輩とはたまに会ったり、ハローワークの帰りに会社の喫煙室に寄ったりしていた。努めてる頃から社内チャットでいろいろ雑談しながら仕事してたのを、同じソフトを家のパソコンに入れて深夜で同じように社の先輩らと無駄話をしていた。

学生時代結局定期のバイトをせずにアシスタントに入り込んでたので、やれるうちにいかにもフリーターな経験をしたいと思って、四月から渋谷の大きな居酒屋に面接に行って即採用された。会社員経験フリーター、店長より年上だった。一番向いてなさそうな接客にした。厨房は時給の安い外国人だけだった。自転車かバイクで通勤してたので終電後の片づけまで残った。

ここでのバイトはいい経験だった。大学生や十代に紛れてなじんでたとは言い難かったが、何かの役を演じてる気分だった。近くの109のカリスマ店員の飲み会や芸能人なんかもたまにいたし、ガラの悪そうな集団が丁寧に食器を集めてくれたり偉そうなサラリーマンが態度悪くいちいち説教してきたり、たまの朝までバイト飲みでほかの人の水商売やヤバイ話も聞いたり、隣の個室で芸人が女口説いてるのも見た。いかにも東京で、渋谷だった。

そのままGWを迎えるかというところで家の電話に連絡が来た。しばらく連絡を取ってなかった少年サンデーの担当からだった。

「編集長が変わる。新人を使うことになった。短期連載用の五話分のネームを出せ。一番手で会議に出せば通せる。」

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