午前二時

 午前二時はいつも、仕事を終えて自転車を飛ばし、途中で野良猫さまたちと戯れ、帰宅し汚れを落として眠りにつく時間だ。明日というか今日も今日とて朝七時には起きなければならないのに、ただでさえ少なすぎる睡眠時間を費やして、これを書いている。というのも、考えても考えても堂々巡りになることを考えすぎたあまり、眠気が家出しかけている。

 ずっと考えていたのは、愛のことだ。愛とはなに、という所からはじまり、過去の愛だったと思っていたことについてだとか、そういうきっと正解は存在しえないものに思いを巡らせていた。

 愛がなんなのか、ということに何かしらの定義のようなものをつけることは、まだできない。ただ、愛だとか恋だとかそういうものの感情は、泣いてしまうような気持ちだと思っている。それは相手に対する嬉し泣きであることも、自分たちに対する哀しみの涙であることも、はたまた理由の付けられぬ感情の吐露であることもあり得るだろう。それのどれかでも、ぜんぶでも、構わない。どれにしたって泣いてしまうことに違いはない。うれしくて泣いてるときになぜだか哀しみを覚えて酷く泣きじゃくることだってある。今だって正直、その懐古だけで少し泣き出してしまいそうだ。

 それでも、その感情を知っていたからといって、人を愛したことがあると胸を張っては言えない。私が愛した人たちは、実のところ、私が愛したかった部分だけなのではないかという気がする。所詮は人間の脳だから、記憶の中で上塗りして作り変えた部分だってきっとあるのだろう。そう思ってしまうと、自分の過去の感情にすら確信が持てない。愛していると、愛していたと感情では確かに思うのに、いざ理詰めで問いただすと途端に脆くなる。あまりにも不安定だ。

 恋情とセックスやキスといった行為が結びついていることも、結びつかないこともある。あるけれど、恋情から入れば結局のところ、その人に触りたくなり、そういった行為に至る。というか、いわゆるそういう段階を踏んだものしか経験が無い。でも仕事上やはり、お客に今度ごはんどう?と誘われて付き合うこともあるし、そのごはんの席でこの後どう?とか言われることだってある。でもまだ承諾したことがない。というのも、自分の内心がよくわからないのだ。

 そういった行為から恋情を切り離せるのかだとか、食事では生理的嫌悪を抱いていないけどその行為の時には嫌悪してしまうかもしれないだとか、考えても考えてもよくわからないことがたくさんある。それもそうだ、一度も経験したことがないのに答えなどわかるわけもない。でも心が荒れているとき、おいしいものを食べれて、いくらかばかりのお駄賃をもらえて、更には一時的とはいえ大切にしてくれるなら、身体を明け渡すなんていけるいける、なんて思うこともある。結局のところ、自分の中で何が重要で何が重要じゃないとか、何が許容できて何が許容できないのかがよくわかっていないのだ。自分のことで、自分の心なのに、なにひとつわからない。

 一年ほど前、その時思いを寄せていた彼女持ちの同期と飲んでいた際、寂しくて死んでしまいそうだとか、セフレだけでもいたらよかったのにと言ってしまったことがある。その時の彼の返答が、「それでもその寂しさが満たされるのは一時的でしょ。俺はきみがそういう自暴自棄なことに走らなくてよかったと思ってる。」というものだった。その答えをたぶん私は今も呑み込めないままでいる。彼の言うところの自暴自棄なことをしようと思っているからなのかもしれないし、彼の存在の片鱗を感じるたびに湧き出る感情のせいなのかもしれない。本心はまだわからないまま。

 自分相手に長いこと感情を騙し続けてきたから、何が本心なのか、その感情の強さはどれくらいかというようなことが、もうほとんどわからない。無意識に感情に蓋をすることが巧くなりすぎた。どこかに少しづつ絆してくれる人がいたらよかったのに。

 どうにもまとまらない考えを書けて少し落ち着いた。
 どうか穏やかな夢を。

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