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物語れない生きる眩しさは。

⑴母親のはなし

 高校三年生の春、母親を癌で亡くした。母親を亡くすまでの一年間、記憶は乏しくどのシーンを思い返しても色彩は薄暗い。まるで私が死んでいたかのように思う。

「母親が死んでしまう」

 という漠然とした恐怖から自分を守る為、心の感度をシャットダウンしてしていた。一人で母親の見舞いに行った帰り道、母親が見たがっていた振袖をまとい二人きりになった病室。どんな顔をすれば良いのかわからなかった。

 どうにか心を保とうと必死だったので、私しか見えていないし、私すら見えていなかった。だから、母親の最期の言葉も、聞きたかった話も、言いたかった感謝の気持ちも全部放り投げた。悔やんでも悔やみきれない気持ちはキリがなく これこそ野暮だなと思う。

 楽しいことは楽しい、悲しいことは悲しいと感じ表出できていたのは母親の存在が思春期の私の心の土台を作り、見守ってくれていたからだったと気づいた。母親のいないあの街で生きる目的が、楽しみが、わからなくなっていた。

 そんな私は、看護師を目指すようになり母親のいない世界をいかに生きるかを考えるようになった。単純な性格のおかげか、死を思うと自然に「生きねば。」と思えたからだ。それからの事をまともに話せば日が暮れてしまうが、悩み流れ着いた現在、職場の「老人ホーム」と屋号「あおにさい酒店」を通して感じた生きること、言ってしまえば「死生観」を綴ろうと思う。

⑵老人ホームの看護師

 歳を重ねて広い意味で「人生の終末期」のステージにいる彼らから学ぶ場面は、互いに命懸け。看護師の私には正義感こそ無いが、気付くべき嫌な兆候や、守るべきライン、共に笑い合う時間はある。それらは難しく、人の命に自分の正義をあてつけ左右させるリスクある仕事だという事を忘れてはいけない。

 人生重ねたシワの数を超える思い出話は面白く、己の時間軸とタイミングで生きる姿はたくましく、愛おしく、羨ましい。時に笑い、怒るし泣くし。とてもじゃないが彼らとの対話は疲れる。ホスピタリティのかけらも無い私だから、この仕事が大の苦手だ。でも、嫌いになれなかった。

 老人ホームでは社会問題を目の当たりにすることも多く、きれいごとでまとめるには苦しいことも少なからずある。悔しいことも、切ないことも、哀しいことも。人生を物語ることは悪くないが、おなみだ頂戴したい訳じゃない。誰もが皆、口にしないだけで小さな擦り傷から大きな暗闇のような痛みを抱えているものだ。25歳の私も、17歳の女子高生も、80歳のおじいさまも。

 それでも仕事へ行くし、美味しいご飯にありつくと「空腹で気分が落ちていただけ?」とか思ってみたりするし、しょうもない事で笑いあったりする。これが「生きる眩しさ」なのだと思う。

 老人ホームで暮らす彼らが集まる食堂は、陽が登ると気持ちの良いオレンジ色に染まる。窓際に座っているおばあさまが、昇る太陽を恍惚として見惚れていた。私も一緒に見惚れた。そういう事。

⑶あおにさい酒店のわたし

 老人ホームの看護師をしながら「あおにさい酒店」として活動をしていくうちに、無意識に愛しんでいた人達が生み出す「文化的な何か 」に私の生活は救われてきたのだと気づいた。

 生活に感情を吹き込んでくれたのは、好きなフードエッセイストが教えてくれた食生活の面白み、つんく♂が作詞した「モーニング娘。」の曲、ビールをつくる自由奔放な男の子だったり様々だが、内なる部分はどこか似ていた。

 それは、生活を面白がる知恵とユーモアを持ち、フラットな心意気で定義や分野にとらわれずに形にすること。救われたと言ったがそれは逃避とも違い、何かに依存する訳でも無い。当たり前にそこにある生活の断片だから。

 私は、己しか救えないはずの各々の人生を 私の生き様、表現、ビールと遊ぶことで 誰かの生活の中に

「何だか楽しい。」
「何だか愛おしい。」

と 感情の変化を生むことをつくりたい。独りよがりは求めていないし、趣味でもない。闘いじゃない。だから、今日もビールを飲むし、仕事に悩むし、言葉を探している。

 母親の強くたくましい生き様と、注いでくれた愛情の深さは今も尚、私の生きるエネルギーとなっている。25歳、母親が生きた人生の半分。物理的ではなく短いであろう人生を駆けぬけたい。愛したい。

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