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言葉にできない想い。

3.11から13年。
あの日あの時、私はガソリンスタンドにいた。関東近辺は揺れに揺れて、私の住んでいる地域は震度5。即、信号から何から停電し、スタンドから家に帰るまでの大渋滞と緊張は大変なものだった。中学生の長男は家に帰されており、小学生の次男を学校まで迎えに行かねばならなかった。緊張とパニックで車をぶつけた。ガリガリガリガリ、ボディの一部をこそげ落とした。1メートル以上のそれを座席に積んで走った。旦那は東京から帰宅できなかった。停電のため、恐怖のため、服を着たまま夜7時には布団に入った。

被災地から遠く離れた場所でもそんな状態だったのだから。東北はどれだけ大変だったことだろう。想像するのもツラい。

29年前、阪神・淡路大震災。
私は神戸に住んでいた。神戸で学生をしていたのだ。叔母の家に下宿させてもらっていた。
そこはマンションの20階で、明け方の大地震は「揺れた」という感覚ではない。
地球の終わりが来た、と思った。
地面が割れる。マンションは倒れる。
そう思った。
圧倒的な衝撃だった。

チョコを食べて過ごした記憶がある。叔母にイライラした記憶もある。駅のキオスクに長蛇の列ができた。学校はそのまま卒業になった。余震がとにかく怖かった。そういえば親戚が亡くなったっけ。
でも、大半は覚えていない。
人間は極限になると、いくらでも醜く冷酷になれるということ、同時に優しく温かくもなれるということが心に残った。

なぜか一番傷ついたのは、地元の関東に戻ったときだ。神戸にいても仕方ないから、と地元で就職することになった。
帰る場所があることが、うしろめたかった。
地震なんて何の影響もなく(そう見えた)、
変わらずに動いている世界に、ショックを受けた。

私は経験したというだけで、何の苦労もしていない。だから、心身ともに傷ついた人と同じ目線で語ることは絶対にできないし、してはいけないことだ。
それ以前に、当時の話を、当時の友人と話したことが一度もない。叔母とも、親戚ともない。「あのときは、、、」なんて話にならないのだ。

なぜか。

イヤなことは忘れてしまう本能も手伝うだろう。でも、とにかく、言葉にならないのだ。
何て言っていいのか、、、分からないのだ。
ぴったりの言葉が、表現が、ないのだ。
大変すぎると「あのときは大変だったねえ」なんて話せないものなのだ。

苦しみや悲しみの中心から近い方はなおさら、感情の波に今も苦しんでいるだろうと思う。
言葉にできないまま。

だから思う。阪神・淡路大震災にしろ、東日本大震災にしろ、能登半島地震にしろ、
語ってくださる方々は、言葉を吐き出すそばから悩んでいるのではないか、と。
きもちを整理しても整理しても、次の瞬間には違う気がする。時間が経つにつれ、またきもちが変わる。前に進むだけではない、ずんずん戻ってしまったりもする。話しても話しても伝わらない気がする。どの言葉も違う気がする。
そんな風に苦しんでいるのではないか。

復興したというニュースや、前向きにがんばっていますという発信は、優しさに過ぎないのだろう。

言葉にすることの大切さもさることながら、
言葉にできない想いは、もっと大切にしたい。

合掌。

#3 .11
#東日本大震災
#阪神・淡路大震災
#能登半島地震

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