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映画「マトリックスレザレクションズ」

とりあえず言えることは、リブートではない正式な続編であるということ。
そこが一番不安であった。あのトリロジーを亡き者としてしまうのは流石に悲しいものである。
はあ、良かった。

それでも現実にこの18年の間に映像技術は向上している。設定としては”あの頃”のマトリックスではなく、作り直したマトリックスであるとしたのは、そうすることで新しい表現に置き換えることができるからだろう。

例えばマトリックスの中で異動する際には、セラフや他のエグザイルの力を借りてバックドアを利用して移動していた。そして現実に戻る際には必ず「有線の電話」が必要だったはずだ。



今回は簡単にオペレータがバックドアを用意できて移動できる。またオペレータが説明する表現もいちいち船内に画面を切り替えていたが、今回はその場面にそのままいるような表現を使っている。



このオペレータがそのままマトリックスにいる表現は、映像的「省略」である。日本の漫画やアニメ、ドラマ、いやむしろ舞台などのお芝居で見られる光景である。
通常、リバイバルや続編でよく見られるのは、より高技術の表現に置き換わることであるが、むしろ高技術ではない方法に切り替えたというのが面白い。

技術革新が進む中で、工夫や表現の変更はあってもいい。今回は特にそのほうがわかりやすいからだ。より重要な集中すべき部分に費用やエネルギーを注いだということだろう。

今回の真の敵がスミスではないというのも面白い。観ている人からすれば、今回もスミスの暗躍に期待したはずで、どこでそうなるかを期待しただろう。

しかし結局の所、そうではなかった。今回はアーキテクトと対になる役割であるアナリストが大ボスで、敵だ。
前回のアーキテクトは大ボス的な立ち回りではなかった。しかし今回のアナリストは、ネオやトリニティーにとっては、2人をマトリックスに縛り付け、そこから逃げたら真正面から襲って来たまさしく「敵」である。最後にはボット(まさにネットによく見られるあのbotだ)を使って総攻撃するくらい2人を消し去ろうとしている。

しかしアナリストはネオとトリニティーに壊滅させられることはなく、物語は終わる。いくら何をやっても壊滅できないとも言えるし、逆にネオやトリニティーも自由に動ける状態である。最後に一言ちょっといじめて、「マトリックスを作り直す」と言い放って去る。決着はしない。

これまでのトリロジーは「生か死か」、「支配するか支配されるか」という二元論(映画内で頻繁に出てくる「バイナリー」という言葉がまさにそれに当たる)しかなかった。よく考えてみると、エグザイルという自由に動ける存在はトリロジーにもいたはずだが、今回の結末は、よりそれが進化した「こういう生き方もある」を示したものかもしれない。機械同士も戦ってしまうような話もあった。

ウォシャウスキーズは昔からのエンターテイメントである映画、アメコミ、日本のアニメなどに感化され、それらを独自に消化し表現してできたのが「マトリックス」であるはずだ。
きっと文化とはそうやって沢山の人に愛され、コピーされ、インスパイアされ、進化をしていくもののはずで、それこそが「全ては愛から始まる」という言葉に込められたものではないだろうか。
ネオとトリニティというキャラクターを死なせたままではなく、蘇らせるアイデアが思い付いたから製作したというが、何よりもこの2人はマトリックスの「愛」の象徴である。
愛は死んでもきっとまた生まれ変わり、何度でも蘇る、そして動き出す。
だから「生か死か」だけの終わりはなくてもいい。
愛してくれるファンがいる限り、この物語は続く。愛ある想像、妄想が「続き」を生む。


話は変わるが。
改めてマトリックスは「映像革命」であった。
古来から多くの映像作家たちがアイデアを尽くして、世界中から愛される数多くの革命的な映像表現が生まれたが・・・ マトリックスシリーズは間違いなくそういった映像革命の表現の一つだ。

今回は以前のトリロジーを超えるまでの表現は正直なかったと思う。
より良い表現方法=リニューアルではあるかもしれないが「革命」とまでは行かないのではないか。
だが、心を震わせるには十分な作品であったし、ここまで回りに回って様々なステークホルダー=キャラクターを表現しきった作品はなかったと思う。

2021年も、2022年も、これからも、映画は革新すると信じている。

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