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「いちゃもん」感想①

1週間前に、大好きな劇団のお芝居を鑑賞した。
この一連の投稿は、
劇団動物園 第30回公演「いちゃもん」を観劇した後の
怒涛の感想レポートである。


「雪が降る前に一度会わない?一年に一度くらいは会いたいよね」
と、彼女からLINEが来たので、
あぁ、もうそんな時期か、と思う。

彼女とはお互い独身だった頃からの付き合いになる。
職場の同僚だったが、私が退職して引っ越して以来、
しばらく連絡を取らずにいたら
「私のことなんてどうでも良くなっちゃったんでしょ!」
と、数年後に赤子を抱いた彼女に泣きながら怒られた。
違うんだよ、
粗末にしていたつもりは無かったんだけど、
寂しい思いをさせてしまって申し訳ない、
と、平謝りしてからは、
彼女の誘いはよっぽどのことがない限り断らないことにしている。

去年と同じ紅葉の中を
去年と同じ森の中のカフェに行き
去年とほとんど同じ、仕事の愚痴をお互いに言い合って
去年と同じ話をしてるね、私たち。と、笑い合った。
 
今日は、夕方から、劇団動物園の芝居を観に行くんだ。
と言うと、
あぁ、一度だけ、私も観に行ったよね。
でもなんだか大人っぽくて、
私には難しくてわかんなかったんだ、
ごめんね。
と、なぜか謝られた。

いやぁ、実は私も、
最近のストーリーは結構、よくわかんないんだよね
っていうか、劇団動物園のお芝居は、
最近どんどんわかんなくなってるような気がするよ。
ストーリーを伝えるもの、というより、
世界観を表現してるもの、みたいな?

お芝居って、アート?みたいなものだと思うのよ。私。
物語とか、絵とかと同じでさ。
絵を描く人も、お芝居の演出の人も、
それぞれの思いや伝えたいことを込めて作品を作るけど、
それをどんな風に楽しむかは、受け取り手の自由?みたいな?
だからね、好き勝手に、
あー、こんな風に見えるなー、とか
こんなことを思い出すなー、とか
こんなことを表現したかったのかなー、とか
妄想爆発させながらいつも観てるよ。

へぇー、そうなんだー。

…そんな他愛もない会話をしつつ、一年に一度の逢瀬は過ぎた。
帰ったら、煮崩れたポトフで腹ごしらえをしてから
観劇に向かおう。

**********

今日はそんな具合で、朝から1日のスケジュールを逆算していたので
予想外に時間が余り、開場直後に劇場についた。
いつも、開演ぎりぎりに観客席に座り、
ぎりぎり最後まで観客席でアンケート用紙を記入するが
今まで一度も満足にアンケートを書けたことはないので、
どうせ書けないのなら、観劇前に書いてみるのも一興、と思ったが
客入れ中に一心不乱にアンケートを記入する変な客になった。

会場に入ってまず、真っ白な布に覆われた劇場内に驚く。
結婚式?…いや、葬式?

真っ黒な空間よりも真っ白な空間の方が
拠り所がなくて不安を煽る。
黒には融けることが出来るけど
白には弾かれてしまう。

隠れる場所がない、露わになる、という感覚なんだろうか。
彼岸の風景も、こんな感じなのかもしれないなぁ
なんて、ちょっとした緊張感が
開演前の高揚感に絡まって心地よい。

開演。
閉幕。

さて、
「いちゃもん」に「いちゃもん」をつけていこうか。

**********

その瞬間、

第四の壁。

という単語を強烈に思い出した。

ここ数年、気に入って読んでいる
ネット漫画に出てきた用語なのだが、
気になって調べてみたら、演劇用語だったことに驚いた単語だ。

第四の壁、とは
演劇における、舞台と観客席を隔てる
目に見えない、意識の上の壁のことだ。
芝居の舞台は、たいてい、
奥の壁と左右の壁の三つの壁に区切られた箱型をしているが、
その三つの壁とは別に、
目に見えない四つ目の壁が、観客と演者の間には存在している。

「ここから先は異空間」
「目の前の出来事は作り話でフィクション」
「こちらから向こうに干渉することはないし、
 向こうからこちらに干渉することもない」

という、
暗黙の了解の上に成り立つ「意識の壁」。
その、第四の壁があるから、
観客は目の前でどんな悲劇が起ころうと喜劇が起ころうと
ある程度平静を保つことができるのだ。

このお芝居は、
ちょこちょこと違和感を足跡のようにチラ見せした後に
最後のシーンで一気にこの第四の壁を破って終わる。

第四の壁が破られる、というか
第一の壁が鏡になる、という手法で。

第一の壁が変貌を遂げた瞬間に
まず起こった感情は、
あぁ、またか。これは知ってる。
だった。

よく似た演出を、経験したことがあった。
それは、
1997年公開映画
『エヴァンゲリオンair/まごころを君に』。
主人公を含めた登場人物たちが、
狂わんばかりの葛藤を繰り返すアニメ映画なのだが、
物語の終盤で、突然、
スクリーンに映画館の観客席が映し出される。

アニメ映画の中に
突然実写の映像が挿入されたことも、当時では斬新だった。
そんな衝撃も重なって、
その演出は、当時17歳だった私の
やわなハートを思い切り握りつぶした。

驚き。その後に羞恥。恐怖。
憎悪、屈辱、疑問、混乱。
あらゆる感情が渦巻いた後に、私の中に残っていたのは、
ものすごい、ものすごい怒りだった。

なぜ、そんなに怒りを感じるのか、わからなかった。
なぜなのか、うまく言葉にできなかった。
だけど、とにかく
すごくすごく腹が立ったことを覚えている。
怒りすぎて涙が出る体験は、そう人生に何度もあることではない。

…そんな、25年前の体験を思い出しながら、
あぁ、あの時は、どうしてあんなに怒っていたのかなぁ
というか、今回も、やっぱり不快感があるなぁ
なんなんだろう、この不快感は。
などと考えながら、
平静を装っていた。

そう、
平静を装っていた。

うわー、やばい、動けない。
背中丸めたまんまだし、はずかしー。
頭の中で、思考が「棒読み」になっているのを感じる。

舞台の隅でこちらをチラチラ見ながら
コソコソ話をしている女優たちを
「見ているフリ」をしている自分を自覚する。

彼女たちを見ている、のではない。
目を逸らしている。

故意に目を逸らしているんだ。鏡から。
鏡を直視することを避けている。

なぜ、避けているの?
何を恐れているの?
見ること?見られること?
見ている私を見られること?

くそぅ、逃げてたまるか
負けてたまるか!!!

居心地の悪さを繕うように女優を追っていた視線を
鏡の中の自分へ無理やりスライドする。
思ったよりも鏡の向こうは遠くて、
鏡の中の自分の表情が読めなかったことに、ちょっとホッとした。
油断しきって丸めていた背中を
そろりそろりと伸ばして、クッと胸を張ったら、
ちょっと落ち着いて周りを見回せるようになった。

なぜ、自分ばかり見ていたんだろう。
他の人も映っているんだから、
そっちを見た方が面白いじゃないか。
なぜ、見てはいけないと思っていたんだろう。
自分が見て欲しくなかったから。
だよね。だけど。ええぃ、見てやれ。
そう思って、視線を他の客席へ向けてみたが、
他の観客たちの表情も、
単純に自分の視力不足で読めなかった。
残念!
そう思ったあたりで、暗転し、芝居が終わった。

カーテンコールで再び舞台が明るくなった時、
カーテンは閉められて、あの鏡は見えなくなっていた。
(安心感!)

なんだろう。なんだろう。
この感情はなんだろう。
この感覚はなんだろう。
なぜ、不安になるの?
なぜ、不快になるの?
なぜ、見えないと安心するの?
あそこに何が映っているの?
あそこに映っていたのは何なの?
こんなに、くっきりはっきりと、
心に衝撃を受けているのに、
自分が何を見たのかすらわからないなんて!
ナニコレ面白い!!!
家に帰って考えよう!!!

一刻も早く
落ち着いた場所に行きたくて、
そそくさと荷物をまとめて会場を出た。
アンケートは開演前に書き終わったと思い込んでいたけれど
「面白かったですか」の五段階評価の欄だけは
観劇後に書くために、
記入を飛ばしていたのはすっかり忘れていた。


後から劇団員の旦那に
「あそこが無記入だったのには、何か意図が?」
とおそるおそる聞かれた時に、
アンケートを記入し忘れたことに気がつきました。
「あ、ごめん、忘れてた」
と答えたら、ずっこけた上に爆笑して
「いや、さすがです」
と、なぜか誉められたけれど…

ごめんなさい。単純に忘れただけです。
他意はありません。
…だけど、もし、あの時、書き忘れたことに気がついて、
書こうとしたとしても、やっぱり書けなかったような気がします。
その位、私は、最後に渡された体験の吟味に夢中で
感想はおろか、評価なんて、出来る状態ではありませんでした。

あ、あと。アンケートに書きかけていたこと。
私が劇団動物園の芝居の中で使われた挿入歌で、
最も印象に残っているのは、
初めて動物園の舞台を見た
「悪魔のいるクリスマス」の冒頭で歌さんが歌っていた
クレヨン社の「地球のうた」です。
舞台で初めて聞いて衝撃を受け、
必死で歌詞を思い出して曲名を調べました。
今でも、カラオケでよく歌う、大好きな歌です。

********** ② へつづく

「いちゃもん」感想②



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