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「自分語り」という、生きていく上での愉悦

人間誰しも、自分が一番で、自分が一番大好き。

そんなことない。私は自分が嫌いだ!と、私も思います。
なんなら私はうつ病で、自分大嫌い人間の代表格みたいなもの。

『でもそう思うのは、自分をよく見つめて、嫌いな部分を探しているから。
よく見つめるくらい、やっぱり自分が好きなんだ。興味があるんだ』

と言われると、はい、論破されましたー。何も言えませーん。とはなります。
理屈は時に暴力的にまで、事実を突きつけてくるもので。

『自分を本気で嫌うのなら、無関心でないとおかしい』
という理屈には、確かに頷くしかないです。
辛さも、何もかもに無頓着。
それはまさしく、自分を無視しすることでしか、成し得ないですよね、理屈上では。

自分を語ること。

自分を語る。
そう言うと、身の上話や辛さの共有を求める事だと思いがちですが。
理屈でよくよく考えると、趣味や勉強・仕事の話も自分語りでしかないんですよね。

自分が、好きだと思うことが趣味。
自分が、やっている(やってきた)ことが勉強・仕事。
そう考えると、人間が話をすること=自分を語ることだと捉えてもおかしくはないですよね。

とすると、話をしない人こそは、自分を語っていないとも考えられる。
つまり、話さないこと=自分を語らないこと


無口な人は、自分を語らない。だから、「何考えてるかわからない」と言われてしまう。
逆に、マシンガントークを繰り広げる人は、ちょっと面倒だな…と距離を置かれることが多かったりもして。
たとえ趣味の話でも、自分語りばかりの人の話を聞き続けるのは、流石に辛いですよね。

だからこそ、カウンセラーという「話を聴く専門家」がいる訳で。
それだけ、人間は「自分語り」をしたいし、聞いてほしい。もし許されるなら、相手の話は聞きたくない。そんな存在だとも考えられます。


自分語りは、弱ったメンタルに効く。

これは私が個人的に考えていることなんですが。
弱ったメンタルやうつ病の回復には、この「自分語り」が有効なんじゃないか、と。

弱っている時、弱音を吐いてはいけない。頑張らないと。もっと辛い人もいる。
と、考えてしまいがちですが、
辛い時に辛いと言えるのは、強さだと思うんです。

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