(再録)守れなかった親友との約束

2008年、琉球新報の「落ち穂」で連載していた頃に書いた文章。
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 親友Gが肺炎で亡くなったのは、昨年*の十一月、自身の三十八歳の誕生日まであと数日という日のことだった。(*再録時注:この文章を書いた前年、2007年)

 彼は、二十歳で会社を興した優れた企業家であり、才能あふれるシステム・エンジニアであった。そして、ゲイなど性的少数者の生きやすい社会の実現をと、様々な活動に力を注いだゲイ・アクティビスト(活動家)でもあった。

 僕は二〇〇〇年に、「東京レズビアン&ゲイパレード」というイベントを開催したのだが、準備を進める中、多くの困難とプレッシャーにつぶされそうになっていた僕を支えてくれたのが彼だった。またパレード後、心身ともに消耗し切った僕を物心両面で助けてくれ、「砂川が始めたパレードだから」と、翌年以降のパレードの開催の目処をつけるために尽力してくれた。

 もしあの頃、彼がいなかったら僕はどうなっていたかわからない。だから、僕は彼を「命の恩人」と呼ぶ。
 しかし、そんな深い関係であったにもかかわらず、僕は、彼の亡骸(なきがら)に触れることも、別れを言うこともできなかった。僕が彼に再会できたとき、彼はもう既に小さい箱の中だった。

 僕だけでなくゲイの友達は、誰も彼の亡骸に対面できなかった。彼がゲイであることを知っていた兄弟が、葬儀にゲイの友達が大勢集まることを懸念したのだ。彼がゲイであることを知らない親戚のことを気づかったらしい。

 しかし、東京から遠く離れたところに故郷のあるGは、彼の親代わりになっていた一人を除いて、親戚づきあいなどほとんどなかった(その一人も、彼がゲイであることを知っていた)。また、生育環境の関係から、彼は血縁関係に大きな価値を置く人ではなかった。一方、友人関係では、彼を深く慕っていた人は少なくない。彼に救われた人も僕だけではない。

 それでも、当たり前のように、親戚の方がゲイの友人よりも優先されてしまう。どんなに前者との関係が薄くて、後者との絆が強くとも。

 実は、Gには養子縁組をしていたパートナーがいた。そのパートナーは、Gの兄弟にも生前から紹介されており、十分に理解を得ていた。そして、法的には親子関係にあったそのパートナーが喪主を務めもした。しかしそれでもなお、様々な力関係と、ゲイであることへの偏見や抑圧から、友人たちは葬儀に参加できなかった。 

 だが、ほとんどの場合、ゲイのパートナーは、葬儀ではただの友人としてしか参列できないということを考えると、Gの場合、パートナーが喪主として参加できたのだから、「まし」な方だったろう。

 思い出すのは、Gと一緒に、「ゲイ・コミュニティ」で大きな役割を果たした人物の告別式に参列したときのこと。親族中心の葬儀のあり方と、それを「仕方ない」と言う他のゲイに彼は怒っていた。そして、彼は「自分が死んだら砂川に柩(ひつぎ)をかついでもらうから」と言い、残された側がそうしようと約束した。なのに…。G、あのときの大切な約束、果たせなかったよ…ごめん。

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