マイノリティ「当事者」のさまざまな経験

ある人たちは川岸を歩いていて、別の人たちは川の中を歩いている。属性によって、それぞれ歩くルートが違っている。川岸を歩いてる人たちのほうが圧倒的に多い。

川の中を歩く人たちの中から、川岸を歩きたいという声があがると、川岸を歩いてる人から「そうしよう」と呼応する人も出てきた。しかし、もともと決められたルートだからダメだと言う人たちがいる。どうやらその人たちが、そのルートを歩く人たちの中で強い力があるらしい。

「川の中を歩く人には悪い人もいる、悪い人が川岸に増えると困る」と主張する人も。川の中の人が川岸を歩くようになると、自分たちが損するように感じる人もいる。

川の中を歩き続けるのが大変であることを伝えると、私たちだって大雨が降ればびしょ濡れになるし、風が吹けば歩きづらい、石につまづいて転ぶこともあると。

川の中で歩く人たちは、川の流れを受けながら、さらにびしょ濡れになり、風を受け、つまづくのに。


同じ川の中を歩く人たちの中にも、足腰が強い人もいれば弱い人もいる。

広く大きな川、浅いところもあれば深いところもある。足腰が弱くて、水流に押されて深いところに行ってしまう人もいる。

足腰が強い人は、「なぜわざわざ深いところに行くのだろう?馬鹿じゃない?」と思うだろう。また、流されない程度の水流を歩いているうちに足腰が強くなる人もいる。そういう人たちには、この水流のおかげで強くなった、強くなれなかった人は自己が悪いと言う人も。

時折流れてくる流木にぶつかってしまう人がいる。そのまま流されてしまう人もいるし、そのとき怪我をして、それまでは平気で歩いていたのに、歩くのが難しくなる人もいる。

たまたま流木にぶつからなかった人、浅瀬にいてひょいと避けられた人の中には、「ぶつかった人たちはちゃんと避けないからだ、自己責任だ」と。

浅瀬を歩く人には、「魚や水草が見えてきれいだ、川の中は素晴らしい」と言う人もいる。深いところを歩く人は、何も見えず不安になる。ちょっとすべると命取りだ。下をうかがいながら注意深く歩いていて、流れてくる流木が見えないことがある。

そんな中、仲間と手をつなぎ歩くことで絆が生まれたり、懸命に流されないように歩き続ける人がいて。それはすばらしいことであることは間違いない。

でも、歩きつづけなくてはいけない道、川岸を歩けるようにしようよ、という人たちが常にいて。だんだんその声に共感する人も増えてきた。だけど、川の中をずっと歩いてきて、それが当たり前で、足腰丈夫だったり浅瀬を歩けていた人たちは、そこに慣れていて、そこから出ることへの恐れを感じ、反対する。

けれど、そういう人たちも川岸を歩けるようになったら、川の中に戻りたいと思わないだろう。水流を受けずに歩ける楽さ、水で体が冷えずにすむ暖かさを感じるからだ。そして、川岸には川岸のきれいな景色があり、浅瀬の様子も見えて、そこはそこで新しい仲間とのつながりを作っていけるのだから。

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