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修行記録(2)感覚の指差し確認

修行の朝は早い。日の出の前には起きている。私は低血圧ゆえ、朝は昔のPCのように起動時間がかかってはうんとかすんとか言いながら、合理化したショートカットの髪を押さえて、宿舎を出る準備をする。宿舎には世代も出身も肩書きもバラバラな人たちが住んでいて、それぞれに身支度をし、朝から担当の場所を掃除して、神殿に向かう。

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私は昔からあまり空の写真を撮る習慣がない。花が好きな母の影響で、花の写真はたくさん撮るのだけど空の写真は、カメラロールを何度スクロールしても出てこない。みなさんのカメラロールはどうです?

こちらに来て、自分の行動を客観的に見ると、普段やっていないことが習慣化していることに気づく。その一つが、なぜか空の写真を撮ってばかりいることだ。

正直言ってこちらに来る前は、空の写真をSNSにあげている親しき友人を見て素朴な疑問を抱いてきいたことがある。

「なんでいつも、空の写真をあげているの?」

いやいや、SNSは自由なスペースだ、個からパブリックスペースに一続きになる地はいえど。それでもちょいとばかし不思議だった。大人になるとアップせにゃならんいろいろもありますし。「私も特に深い理由はない。ただ素直にみんなに見せたいなって思ってね。あとSNSは私、昔使っていた宝箱みたいな感覚なのよね」と彼女は言う。

なるほどね、と言いながらもどこか分からないまま3年くらい過ぎてしまった。そんな私は今あまり深い理由もなく、空の写真を撮っている。

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際限なく、空。特に朝の日は何度見ても写真に撮ってしまうから、カメラロールには似た写真もたくさんある。時間とともに濃淡が移ろう。背の高い松の木は愉快な影となり、有機的な文様が浮かびあがってくる。寒い日の朝の空気が、肌をすーっと撫でていき、白い息だけで会話ができそうな気さえする。呼吸が見える化して、生命力がはみ出している。iPhoneでおさめた写真一枚から、寒さも香りも、思い浮かんだイメージも復元されていく。SNSにも、カメラロールにも、宝物みたいにカオティックで私にしか分からない大切さがつまっていく。

.....なんて、言ったら、些か呑気な生活のようだけれど、私はいま、そうやってひとつひとつの感覚を注意深く確かめている。忘れてしまった感覚を、呼び起こし、指で差してひとつひとつに触れていく。

東京にも空が美しく見える場所はいくらでもあるはずなのに、私は景色よりも眩しい画面ばかり見ていたのかなとか。とはいえ、霞んだ空が美しいからと、「共有したくなる誰か」が画面のその先にいてくれたのだなとか。尊いや、愛おしいや。

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今の私ならもれなく、空の写真の例の友人のその嬉しさに近寄れる。Less is Moreってもしかしたらこういうことなのだろうか。眼前に与わる景色に気づく、感覚だけは霞ませないようにして、東京での生活に帰りたい。