見出し画像

りんごジャムとお米。あの日、受けとったものの重み

8年前、東日本大震災が起こったあと、ある一つの出来事を体験した。
それはいま思えば、ちょっとした無知からくる勘違いであり、そして、小さな恥でもある。

当時、ヤフーブログで育児日記を書いていて、同じ育児ブログのブロ友さんに、福島在住の方がいた。
震災のニュースが流れ、しばらくして、第二子が生まれたばかりの彼女のことが気になり、メッセージを送ってみた。

幸い、被災地からは離れていたため、被害もそれほど大きくないと返事があったが、わたしはいてもたってもいられなくなり、彼女の家の住所を教えてもらい、育児の一助になればと、当時、定期購入していたハワイの海洋深層水を一箱送らせてもらった。

なぜ、水を送ったのかは想像がつくだろう。
原発事故の被害で、新鮮な水を欲しているのではないかと想像したからだ。
母乳を上げるにせよ、ミルクをあげるにせよ、新鮮で汚染されてないお水が喜ばれるだろうという気持ちからだった。

支援物資を送っても届くまでに日数がかかる可能性があったが、それでも無事に彼女の元に届き、その後、お返しの品が届いた。

それは、福島産のりんごジャムとお米だった。

わたしは、一瞬それを見てかたまった。

震災による原発事故が起きていなければ、その品はすごく嬉しいものだっただろう。だけど、この福島の農産物をどのような気持ちで送ったのか、一瞬わからなかった。
が、お米もジャムも震災前のものだったので安心し、逆にお金を使わせてしまったなとも思った。

そして、そこには手紙が一枚、添えられていた。

はじめて見る手書きの文字は、ブログからもうかがえる、彼女のイメージそのものだった。
手紙の内容ははっきりと覚えていないが、こんな感じのものだったと記憶している。

お水のお礼と、福島産のりんごジャムとお米のことが誇らしげに綴ってあった。そこには、福島への愛と誇りがあった。

そして、震災後の彼女のブログにも福島への愛が綴られていた。
会津に住んでいた彼女は、「いつかこの会津の景色を見てほしい」と書き、会津若松の紅葉の素晴らしい写真がアップされていた。

いただいたりんごジャムは甘すぎず、さわやかな味でほんとうに美味しかった。
お米も、わたし自身が米処、富山に住んでいるので、福島産のお米は初めて食べたが、美味しくいただいた。

そして、また考えた。
なぜ、彼女はわざわざ「福島」という土地で育った農産物を送ってくれたのか。「福島の美味しいジャムとお米を、ぜひ食べてください」と。

そのとき、わたしは「福島」という土地に対して、原発事故の汚染の影響だけを心配していた。そこで育つ新生児に、少しでも新鮮で安心な水を送ることくらいしかできないが、心からその影響を懸念していた。

だが、彼女は違った。
その地で育った恵みがいかに美味しいか、自分たちが住むその地がいかに素晴らしいかを、二つの農作物で教えてくれ、福島の、会津の素晴らしさを教えてくれようとしたのだ。

その後、原発事故の被害の詳細もわかり、過剰な不安を煽る報道を問題視する冷静さを取り戻しはじめた。

あのとき、自分が良かれと思った行動も、もしかしたら彼女の心を少し傷つけてしまったかもしれない。
自分の住む町を愛し、誇りに思う心に泥をかけてしまったのではないだろうか。

たぶんあのとき、わたしは初めて、「恥」という概念をもったように思う。
わたしが善意でとった行動は、裏を返せば「そこは汚染されている可能性があるから、気をつけて!」というメッセージでもある。彼女はおそらく、そのようには受け取ってはいなかっただろうが…。

あのとき送った水は、新鮮で、原発事故の不安などまったくない、無垢なものではあったが、今思うと、ほんとうにそのとき必要だったのは、純粋で無垢なものではなくて、もっと大きな視点での配慮、想いだったのではないか。

原発事故が収束してからも、SNSではあのときの自分とそれほど変わらない、純粋で無垢な善意があふれ、それが逆に福島に住む人や帰ろうとしている人の気持ちを少しずつ傷つけていたのではないかと思う。

風評被害という二次被害を受け、それでも、生まれ育った地への愛情で負のエネルギーを跳ね返したあの力。それを、わたしたちは自分の住む町に持っているだろうか。

残念ながら、あれからまだ福島へは行けずにいるが、震災前にはほとんど意識していなかった東北、陸奥の町を訪れてみたい。
そこに住む人に、愛と誇りと力を与えた福島という大地に足をおろして踏みしめてみないと、そのほんとうの魅力はわからずじまいだろうから。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?