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ここに居るわたしは、世界で1番かっこ悪いわたしだ。


わたしは、「書き手であるわたし」と「書き手でないわたし」に別の人格が宿っている、そしてそうであって欲しいと常々願っている。


その方が、自分の文章を客観的に読むことができるような気がするからだ。



少し前の話になるが、note以外の媒体での名義の名前を変えた。外部のwebサイトへの投稿を少しずつ増やしている。それに伴って、noteに顔を出す頻度も少し落ちている、気がする。







note以外でも書き出すようになって思ったことは、真っさらなところに書き出すことがいかに難しいかということ。どうしても、肩に力が入って格好つけてしまう自分がいる。だからきっと、もちろんまだまだ小さい記事ではあるが、万が一にも外でわたしを見つけてくれた、noteを読んでくれている誰かがいたとしたら、落胆するかもしれない。そこはわたしの良さを静かに静かに殺してしまうような空間かもしれない。わたし自身がそうしているのかもしれない。


そう考えた時に、noteだけは【suu】のままで、支離滅裂でも発展途上でも、自分の書きたいことを、人の目を気にせずそのまま綴れる場所にして置きたかった。パソコンの要らないデータを捨てた、削除前のゴミ箱の山の中みたいな。家での自分とか、親友や家族と過ごす時の自分の言葉で話す場所が欲しかった。混沌としていて、雑多な場所で綺麗じゃないかもしれないけど、何かを思い出したりしてあったかくなる、かもしれない場所。


その代わりきっと、世界で1番カッコ悪い。



書くことってどうしても、非公開の日記以外は、読み手を意識せざるを得ないから難しい。でも、誰にも読んでもらえないのは読んでもらえないで寂しい。人って天邪鬼だなとつくづく思う。



ずっと考えていた。文章が好きなはずなのに小説を書けなかったこと。書いてこなかったこと。

わたしは去年の1月にこのnoteを始めたわけだが、文章が好きなはずなのに、なぜか文章を書いてこなかった。書くのが怖かった。だって、みんな文章が上手なんだもの。




以前、ミュージシャンや画家に比べて、ライターという職業が軽視されているように感じる、という記事をどこかで読んだ。「こんな記事なら俺でも書ける」と言われた、とかそんな内容だった気がする。そう、本当にそうなのだ。わたしたちが、書いたり読んだりバラバラにしたり繋げたりして今必死に悩んでいる表現は、日常生活でみなみな様も使っている言語と同じ。だから誰だって書けるよ。わたしじゃなくたって、書けるんだよ。



でも、それでもやっぱり、誰でも書けるこの世界の中で、心動かされる言葉はある。それは他の言葉より光っていて、優しくて懐かしい。そして、どこか自分の弱くて柔らかいところにチクンと針を刺す。だからこそ、グッと来る。上手いなって。ああ勝てないなと、目を逸らしたくなる。そんな言葉に、わたしは日々の中で出逢う。今までも、これからも。



noteはわたしの鏡。まだまだ拙いこの言葉では、自分自身すら綺麗に映せない。


だから、書こうと思った。もっと必死に、もっと考えて。わたしもいつか、わたしだけの命のこもった言葉を紡げるようになるだろうか。【suu】だからこそ書けること、なんて本当にあるんだろうか。世の中は広い。たくさんの仕事があって、様々な人生があって。昼の世界も夜の世界も、面白い話を持っている人なんて腐るほどいる。それに、いつでも世界はめぐるましく変化していて、常にさっきまでの「新しい」は「時代遅れ」に変換されていく。わたしは何のために筆を取るんだろう。何を書きたいんだろう。



カッコつけててもいいかな。まだ何を書きたいかなんてやっぱりわかんないや。




でもね。


綺麗なものを、心地良いと思えるものを形容できる幸せを、少しずつ広げていきたいと心の底から願っている。


それは【suu】も【suuの中のとある女】も同じ。祈りに近い想いの強さで、わたしがわたしを認められるようになる日を、待ち望んでいる。








本日は、職場の休憩時間から。

2020.10.23

suu


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