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奪われるための眼だった

奪われるための眼だった臆病なきみがおおきく振りかぶるとき

『悪友/榊原紘』
(書肆侃侃房)

『おおきく振りかぶって』を読んだことがない。この短歌は、野球マンガ『おおきく振りかぶって』に寄せられた、連作「サードランナー」のなかの一首。詳しい文脈はわからない。しかし、この短歌はとても美しい瞬間を切り取っているように思ったし、そのときの熱がよく伝わってくる。

「奪われる」という始まり方。目を奪われるという慣用句のまさにその瞬間。「おおきく振りかぶるとき」というのは、タイトルから来ていることばだ。ひらがなに開かれた文字と、オーバースローのはじまりの動作へと収束していく語順が、目を奪われた数秒をあざやかに再現している。見惚れてしまった瞬間の、息を呑むような感触が全体を貫く。

この場面は(想像だが)、「おおきく振りかぶる」動作を、他のキャラクターが見たときの場面を短歌にしているのだろう。一方で、榊原自身が目を奪われたその時のことでもあると思った。

あなたは、楽しかったライブ終わりや小説を読んで涙した後に、感想文を書こうと思ったことがあるだろうか。自分のなかに生まれた感動を、人に伝えたいというのは尊い現象だ。しかし、作品が良かったという事実と、その作品の良さを伝えることには隔たりがある。あったはずの感動が、書けば書くほど、こぼれ落ちてしまうのがわかる。

焼き付くほどにうつくしい瞬間は、きっと誰の人生にでも現れるだろう。その個人的体験は他者へ伝えることがほんとうに難しいから、伝える手段は言葉によって「頭の中で想像してもらうこと」にほとんど限られる。

この短歌は感想文ではないが、感動を伝える機能を同様に持っている。ぼくたちがつい書きたくなってしまう感想文と、魂はおなじである。じつは、眼を奪われる一瞬を写真や音楽で切り取って、その温度を受け手に渡すのは無理だ。それが短歌ならばできる。とはいえ、もちろん、簡単なわけではない。

この作品を読んだ時、「『おおきく振りかぶって』を読みたい!」と思った。絶対にすごいシーンだ。作品をとおして、そこまで思わせることができるなんて、なかなかない。作者の短歌的手腕のなせる技である。

ぐうっと振りかぶって、動き出す。投げる寸前、瞳が合ってしまった気がする。ぼくはこの短歌から、逆光を見上げるような眩しい景と気持ちを間違いなく受け取ってしまった。きっと、榊原もこのシーンをまぶしそうにみていたのではないか。

別の作品に取材して、新しく作られたものが好きだ。読んだことのある作品に、誰かが何かを加えて、世の中に出してくれる。たまらなく嬉しい。触れたことのない作品でも誰かが愛を叫んでいるのをみて手に取ることも多い。感想や評言によって、あるいは口ずさまれることによって、コラボによって、「解釈」という栄養を得て、生き生きと新たな価値を生んでいく。

榊原紘の歌集『悪友』は、オリジナルの短歌連作に加えて、4篇の連作がマンガ・映画・アニメへとささげられている。

『悪友』目次より

『悪友』は発売から二年を数える歌集だが、この4篇について言及したものは少ない。元となった作品で読んだことがあるのは、高校バレーを題材にした『ハイキュー‼︎』だった。

以下の短歌は、天堂覚てんどうさとりというキャラクターの名前が横に添えられた作品である。

立つ鳥が跡を濁さぬ寂しさを肯う昼よ さらば楽園

『ハイキュー‼︎』は、自分が高校生の時、隣にいてくれた漫画だった。競技は違えど、インターハイ出場を目指してスポーツをしていた。戦いに躍動する言葉やプレーがその動きのたびに胸を熱く打つマンガだった。

天堂覚てんどうさとりは、ぼくや、主人公のような、弱小と呼ばれる高校で奮闘する選手ではなかった。白鳥沢学園高校。圧倒的なエースを主軸に、王座に君臨するチームのレギュラーメンバーである。

能力の高さと異様なプレースタイル(と、性格)から、中学校のバレー部でははみでた存在であった。「楽園」とは、自分の能力と願望が認められ、仲間と対等にプレーできる初めての場所。すなわち彼の人生における、白鳥沢学園高校という場所である。いままで突出した存在であった彼が、対等にプレーできる仲間を見つけた場所。

しかし天堂の最後の試合は、ダークホースとして勝ち上がってきた主人公たちの高校に負け、終わってしまう。負けの直後にコートをみつめて、彼は「さらば俺の楽園」と呟いた。

高校生の部活は負けてしまえば、ほんとうにあっけない。高校という場所の制約を受けている。大学受験や就職試験、卒業に追い立てられて、何にもなかったかのように日常から消えてしまう。

つねに強者の側に立っていた彼の敗北へと送られた短歌が掲出の歌。〈立つ鳥が跡を濁さぬ寂しさを肯う昼よ さらば楽園〉。一字を空けて呟かれた「さらば楽園」が胸を締め付ける。強者であったこと。敗北の瞬間に過去であること。二度と同じ輝きのなかでプレーすることは叶わないこと。硬い言葉で流れる前半部分は、遠い光を見つめる眼差しのようにも見える。

彼は、高校でバレーボールをやめる。

立つ鳥が跡を濁さぬ寂しさを肯う昼よ」。優勝の二文字は、最後の一チームにしか訪れない。負ければ否応なしにすぐに次のステップに進まなければならない。三年で入れ替わる場所では跡も濁せない。強者であった天堂ですら、そうやって去っていった。敗北を潔く飲み込んで、また上を向かなければならないのだ。

競技を去れば、プレイヤーとしては忘れられていくだろう。だけど、その三年間に、バレーボールをしていた天堂という存在の代わりはどこにもいない。プレーのなかで感じた熱は、たしかに彼が感じたものだ。そして短歌を通して、天堂に当たったスポットライトは、同時に、そのほかの敗者たちを照らしている。「鳥」は、天堂を指す言葉でもあるが、スポーツ史に名を残すことなく競技を去った幾万の高校生たちのことでもある。

多分 こんなふうにあっけなく“部活”を終わるやつが全国に何万と居るんだろう。何試合もある予選を全部勝ち抜いて全国へ行って。これが物語フィクションだとしたら全国へ行く奴らが主役で俺達はエキストラみたいな感じなんだろうか

それでも 俺達もやったよ バレーボール やってたよ

『ハイキュー!!/古舘春一』
(5巻40話)

どれだけ弱くとも、どこで負けようとも、どんな去り方をしようとも記憶は否定されない。この榊原の作品は敗者たちの物語である『ハイキュー!!』と共鳴し、あらゆる高校生の、高校三年間にしか存在しないごくごく個人的な熱狂を描き出している。

天堂がプレーした一瞬一瞬はもう二度とみれないかもしれないが、そこには一人の選手がいたのである。他の誰よりも、自分が覚えている。天堂と、他のプレイヤーが抱えている楽園は全く違うものだろう。天堂にとっては、自分のプレーを認めてくれる白鳥沢学園という場所だった。他のプレイヤーにとっては、ある特定の一試合かもしれない。ある特定の「一点」かもしれない。

誰もが限られた時間におのおのの「楽園」を持っている。楽園に別れを告げても、熱は生き続けるはずだ。たとえ、そこには二度と戻れないとしても。



作者の榊原さんの「榊」は、正しくは「しめす編」を用いた漢字なのですが、使用フォントの都合上表記できません。代用として「榊」を使用しております。


読んでくださってありがとうございます! 短歌読んでみてください