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リベラルは間違ってるんだと思う

日々のほとんどを覚えていられない。思い出せるのは、心に溜まったわずかな砂で、それはその人自身とよくつながっている。思い出すときにひとは良い文章を書く。

『ねむらない樹』という短歌の雑誌があって、丸山るいさんと、toron*さんの二人の先輩がテーマ「わたしの短歌入門」で作品を寄稿していたので、ジュンク堂書店で手に取った。良かった。竹中優子さんの文章も良い。読みきったところで冒頭の気持ちが出てきた。

ところでわたしは雑誌のいい読者ではなくて、雑誌を頭から最後までを通して読んだ経験が無く、なおかつ、新人賞の作品を読む気持ちがなぜかどうしても湧かないので、実はほとんどの賞の作品を読めていない。けれど、今回は新人賞の受賞作を読もうと思った。この号は短歌の新人賞「笹井宏之賞」の発表号だった。

リベラルは間違ってるんだと思う 母さんがこんなに怒ってるから

「名札の裏」白野
『ねむらない樹 vol. 11』

大賞作品にかなり共感をもって読む。私がまだ若くて、長崎の離島に住んでいた頃からそこまで時間が経っていないからだろう。描かれている立場や経験とはぜんぜん違う人生を送っているが、それでも。地方、僻地に生まれる苦しみは、頻繁に話題にのぼるし珍しくはない。珍しくないからといって個人の選択や思想形成に大きな影響を与えるのに変わりはなく、非常に切実で、それは自分から生まれる語りを見ていても、そうだ。

生まれた場所で「リベラル」という言葉を聞いたことが一度もない。やはり、リベラルにまつわる言葉は特権的な立場にある人が使うのだと思う。啓蒙が鼻につく。安全ジャケットを着込んだよその人間が踏み込んできたときに、苛立つ。あるいは空虚だと思う。

それで「核家族化」という話を社会科の授業で聞いた時のピンとこなさを思い出した。「夫婦のみの世帯、親+未婚の子どものみの世帯」なんて友達の家をみてもほとんど無かったし、むしろ変わりもののように映っていた。他の場所ではそんな現象が進行しているらしい。へえ〜。リベラルとはまた違うけれど、「ここ」が他の場所とは違うのだろうと子どもながらに感じたのだった。

場所が離れたとしても、離れられなさがある。故郷を離れている作中主体の立ち位置から思い出す時に滲み出る液体のような語り。社会(と呼ばれている場所)と、自分が内面化している物事との間にズレがある。家族への強烈な意識。故郷を出て語りはじめるときの、家族への遠さと、あまりにも自分と近すぎること。以下、二首。距離の感覚がこれ以上ないほど的確に捉えられている。

へその緒の名残がいつも木立とか空の奥から見てる気がする
受話器ってあなたや父親の声を通すかもしれないから好きだ


読んでくださってありがとうございます! 短歌読んでみてください