失われた日本を求めて

冷たく刺す空気に肌が硬くなる感覚で目が覚める。
昨日あんなにも切実だった想いが、石の塊となって冷たく転がっていることに気づく。
喪失を理解しても、感じることはできなかった。
もう昨日の自分ではなかったから。
変わっていくことは仕方がないことだ。
人の心が物理的な神経から発生するものならば、肉体と同様に精神も変わっていくことは避けられない。
それは人という個人ではなく、国という集団でも同様のことが言えるだろう。

何が国を規定するのか。
純然たる答えを出せるものはいないが、ここでは国を構成する集団、つまり国民だとする。
では国民を規定するのは何か。
それはその国の文化だ。
真っ白な世界に放たれた群衆に群衆以外の呼称はなく、なんの秩序も傾向もない。
そこにあるのは肉体であり、そこから発展した原始的な欲以外に明確な精神性はない。
文化があるからこそ、人は肉体以上の精神性を持ち、群衆ではなく国民として振る舞うことができる。
その意味で、文化とは国であり、国民の親であると言える。
国民をその国へと帰属させる拠り所だ。

しかしその文化は、(日本において)国に帰属しているだろうか。
少なくとも若者達が触れる圏内にあるのは、以前の記事にも書いた通り、資本主義の大量消費と国際化によってもはや形骸化した習慣や希薄な思想だ。
ここで文化と国、国民の間の関係に矛盾が生じる。
文化が国と国民を作るはずだった。
ここは日本だが、日本では無い。
少なくとも、近代化され灰色の森になった街や混沌を極める電子の海に日本の傾向を見ることは難しい。

それでも島国故の特異な生態系が郷愁として文化の足跡を辿らせたかもしれない。
しかしそれも資本主義故か人間の根本の欲か判別もつかない、際限の無い破壊によって消えていく。
人間性を二の次にした合理主義は、遠くない未来に日本語すらも過去のものにするだろう。
サピアウォーフの仮説では無いが、言語は人の思想をある程度規定する。
日本の思考様式である日本語を失えば、堰を切ったように日本の文化は失われていくだろう。
あるいはその時にはすでに、失うべきものも失われているかも知れないが。
全てを失った時、自分達はいったい何者なのか。
国、民族という帰属先を失った時、人々はその孤独に対してどう向き合えばいいのか。
今の世でさえも孤独を感じる人々は、その時絶望しない精神を持ち合わせているのか。

人も国も、変わっていくことは避けられないかも知れない。
今の世界では、変わっていくことは寧ろ望ましいことだという向きもある。
それでも、今の自分が愛するのは紛れもなく日本であり、日本の文化である。
今自分を自分たらしめる大切なものを蔑ろにして、とりあえずの欲求と要求で変わっていく世界をただ受け入れ、眺めるだけというのは敗北主義以外の何ものでも無い。
今の自分達にできることは決して少なくないはずなんだ。

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