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篠山紀信は美しく、反抗の人であった

 写真家、篠山紀信が2024年1月4日に亡くなった。享年83歳。
 写真を少しかじっている人間として、追悼の意も込めて、少し記してみたい。

 篠山紀信と言えば、宮沢りえや本木雅弘、樋口可南子などを起用した、「ヘアヌード」で話題となったことが一番印象に残る人も多いだろう。

 1994年には、新潮社からずばり、「hair〔ヘア〕」という写真集も出している。偶然にも私はこの本を2024年1月2日に古本屋で手に入れた。何か知らせるものがあったのかも知れない。
  さて、この本だが、タイトルどおり「ヘア」ばかりを撮った写真集である。写るのは主に、臍から下だけ。胸も、顔もない。ひたすら「ヘア」を中心とした美しい写真が並んでいる。
 そう、美しいのだ。さまざまな構図や背景のもと、ソフトフォーカスから、強烈な太陽光の下で撮ったものまで、ヘアを美しく撮った写真集である。

 この写真集に象徴されるように、篠山紀信は、美しさと反抗の人だったと思う。
 
 美しさは、一連の女優・俳優の写真に象徴されるだろう。山口百恵の若さを見出した才能は、美しさを求めた彼の真骨頂だ。原美術館で2016年に開かれ、33人ものヌードモデルを起用した「快楽の館」などは、その究極だったのだろう。

 一方で、反抗の人だった点も見逃せない。
 前述の「hair〔ヘア〕」は、宮沢りえや本木雅弘、樋口可南子らの作品から、ヘアヌード論争が起きた後の発行だ。それはヘアが猥褻かどうか、といった論争に対する彼なりのアンチテーゼだったのではないか。また、最初期の作品「篠山紀信と28人のおんなたち」の実験的で挑発的な構図には、どこか、反骨精神が感じられる。「激写・135人の女ともだち」も一見、ポートレートの集成と捉えらえそうだが、逆光を使った山口百恵の水着写真をはじめ、被写体を被写体以上に扱っている。単なるアイドルや女優として撮らない点は、きわめて反抗的と言えるのではないだろうか。

 反抗ということばで思い出したのが同い年の写真家、荒木経惟との論争だ。荒木は、写真集「センチメンタルな旅・冬の旅」に、棺の中で眠る妻・陽子の顔を撮影した写真を載せた。このことについて、篠山紀信は荒木に「あなたの写真は一面的じゃないというか、多義性を孕んでいるからこそ面白かったんじゃないですか。本当のこというとこれは最悪だと思うよ。荒木ほどの奴がこれをやっちゃったのはどういうことかと思ったね」と疑問を呈する(現代ビジネス「アラーキーは、なぜ時代と乖離したのか? 元担当編集が明かす」〔2018.05.19〕より引用)。最も挑発的な写真家の一人であろう、荒木経惟と正面から向き合い、反論するような、写真に対する熱い思いのあった人、「多義性」を求める人なのだと、あらためて感じさせられるエピソードだ。

 美しさと反抗、この2面性と向き合ったからこそ、篠山紀信は巨匠たり得たのだと思う。そして、ご本人と会ったことはないが、きっと言葉の力がある人だったに違いない。私自身、ポートレートを何度か撮ったが、一番大事なのは被写体とのコミュニケーションである。美しさを保ちつつ、ヌードという極限の美に、被写体を誘うのは並大抵の言葉ではできないと思う。しかもそこに時代への挑発=反抗がある。

 時に思う。写真とは何なのか。そんな迷える時に、今後、篠山紀信という写真家を思い出し、作品を見返すことで、何かインスパイアさせられるものがあると思う。
 篠山紀信はヘアヌードや週刊朝日の表紙の人、では留まらない、時代と向き合い、美を求め、時代を挑発し続けた巨匠であった。

 

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