いちごのは

イエローマンデー  ~episode Ⅱ 安井さん 避難用トンネル 社食よりずっとおいしい焼きそば~

 黒ぶちメガネの向こうでほほえむ針のように細い目は確かに知っている人です。慣れない運動に息を荒くしながら、一所懸命に思いだそうとしていると、
 わかりませんか? ほら、シュレッダーの。
 ようやく記憶がよみがえりました。職場で、廃棄書類をシュレッダーにかけるために集めてまわっている庶務の安井さんです。
 大変でしたね。おけがはありませんか?
 言いながらぼくをのぞきこむその顔はあいかわらずほほえんでいるので、バカにされているような気がして少しムッとしかけたのですが、安井さんの顔をこれほど間近で見る機会がなかったので気づかなかったのでしょう。安井さんの目は細い上に湾曲していてちょうどSの字を横にしたような形なので真顔でも笑っているように見えるのでした。
 あの高校生の女の子、どういうご関係ですか?
 安井さんが尋ねるので、ぼくは大きく首を振って、全然知らない人です、と答えました。
 なんか、お姉ちゃんがどうこう言ってましたが、お姉さんはお知り合いなんですか?
 ぼくは、また首を振りました。お知り合いなんですかと言われても、女子高生自体面識がないので、彼女のお姉さんが誰なのかわかるはずがないし、たとえお姉さんがぼくの知り合いだったとしても、刃物で切りかかられるようなことをした覚えはありません。
 でも、あの子、あなたを刺そうとしてましたよね。
 ぼくは、ぎょっとして安井さんを見ました。相変わらずほほ笑んでいるような目です。いや、ひょっとすると本当に笑っていたのかもしれません。
 何にしても、あの子、追いかけてきますよ。安全な通路で逃げましょう。
 聞き返すより先に、安井さんは目の前の壁に手を伸ばしました。そこには鉄の扉のようなものがあり、安井さんが押すとなんなく開きました。ためらう様子もなく、安井さんが扉の向こうに消えたので、ぼくも後に続きました。
 人ひとりがやっと通れるくらいのトンネルが伸びていました。四方はコンクリートに囲まれどこも同じ色でじっとり湿っています。どこにも照明らしきものは見当たらないのですが、扉を閉めてもぼんやりと明るく、少し先を歩く安井さんの姿がはっきりと見えたので後を追いました。
 しばらく安井さんにくっついて歩いていましたが、だんだん不安になってきました。そもそもこのトンネルはいったい何に使われるもので、どこにつながっているのだろうか。しごく当然の疑問が次々浮かびあがってきたので、安井さんの背中に向かって、あの、と声をかけました。密閉された空間のせいか、思いのほか声が大きく響いたので少し驚いてしまいました。安井さんが足を止めて振り返りました。このトンネルは一体なんなんですか?。そう尋ねると、安井さんはしばらく例のほほえんだような目でぼくをじっと見つめていたかと思うと、
 なにって、避難用のトンネルですよ。災害とか事故のときに使う。
 その口ぶりが、そんなことも知らないのかとでも言いたげな色あいをおびていたので、ぼくは萎縮してしまってことばを返すことができませんでした。
 まあ、実際、偉い人しか知りませんからね、こういうことは。
 まだその先安井さんの口が動いているのが見えたのですが、言い終わる前に安井さんは前に向きなおって歩き出したので、聞きとることができませんでした。安井さんはどう見ても「偉い人」とは思えないのですが、もちろん口には出しません。でも、問題ないんでしょうか、勝手に使って、事故でも災害でもないのに。そう声をかけると、安井さんは足を止めないまま、
 事故じゃないですか。刃物で襲いかかられたんだから。
 安井さんの言うことは正しいようにも思えますがどこか違うような気もしました。
 じゃあ、どうします。駅に戻りますか。
 不満げなぼくの心が伝わったのか、安井さんの口ぶりがどこか面倒そうというか、少し怒っているようにさえ感じられたので、ぼくは、いえ、とか口ごもりながら小刻みに頭を下げて、安井さんに逆らうつもりはないという空気を全身から漂わせてみましたが、安井さんは黙って歩き続けています。少し心配になって、ぼくのせいで、面倒をおかけしまして申し訳ありません、とできるだけすまなさそうな口調で言うと、安井さんは初めて足を止めて振り返り、やけにあかるい声で、
 何言ってるんですか、友達じゃないですか。
 友達、とぼくは心の中でくりかえしました。安井さんとことばを交わすのは今日が初めてなのです。
 やがて、前方の壁にまた鉄の扉が現れ、安井さんが開けると、細い階段が上にのびており、先の方に光が見えました。階段はやけに急でとても上りづらいのですが、ぼくよりずっと身長が低く、足も短いはずの安井さんは軽々と上っていくので差がぐんぐんひらき、半分くらいまで来たところで見上げると、安井さんはすでにゴールに到着してぼくを待ってくれているようでした。ぼくがようやく追いつくと、安井さんは頭上の格子の鉄枠を両腕で持ち上げ、その穴から這い出ていきました。ぼくも後に続きました。
 穴から顔を出した瞬間、冷たい空気が頬をなでました。周囲は灌木に覆われており、ここがどこなのか見当もつきません。這い出して見回してみると、灌木がはえているのは、穴を中心としたほんの小さな区域だけのようで、その向こうは広場になっていて人の気配がします。公園のような雰囲気ですが、見覚えのない風景です。一駅しか乗らずに地下鉄を降りたはずなのに、家を出たときどんよりと曇っていたはずの空が、真っ青に晴れ渡っています。それも妙ですが、もっと腑におちないのは空気が異様に冷たいことです。今朝は特別寒かったのは確かです。暑がりのぼくがめったに着ることのないウールのベストに厚手のコートを選んだくらいですから。気温はもとより、うまく言えないのですが、空気がはらむ香りと色がぼくの知っているものと次元がちがうというか、まるで異国に来たかのようなのです。
 いつのまにか、安井さんが灌木をかきわけて歩きだしています。気持ちは宙に浮いたように釈然としないままですが、ここで安井さんと離れてしまうのは不安この上ないのでついていくしかありません。
 公園はちょうど小学校の校庭の半分くらいの広さでしょうか。ベンチにぶらんこ、シーソー、砂場が見えます。隅には屋台がいくつか並んでいて、その前で数人が立ったりしゃがんだりして何かを飲み食いしています。一見、ごくありふれた公園ののどかな風景ですが、どこか変に思えてなりません。
 朝、食べそこなって、お腹すいちゃって。
 まっすぐに屋台に向かう安井さんの後をついていきながら、その「変」の理由に気づきました。公園にいる人たちが大人ばかりで、子供が一人もいないのです。それに、彼らの服装は油のしみだらけの作業着だったり、和服だったり、軍服のような詰襟だったり、この寒いのに薄いTシャツだったりさまざまでした。年齢層もばらばらのようですが、隠居するほどの年配の人も見受けられないし、月曜の朝にこんなたくさんの大人が公園でたむろしているというのもおかしな話です。
 安井さんの姿が見当たりません。あわてて目で探すと、屋台の前の電灯の下にしゃがみこんで、おいしそうに焼きそばを食べています。ぼくは、普段から朝食を食べないので空腹ではありませんでしたが、寒いので何かあたたかいものを飲みたいと思っていると、「コーヒー」というのぼりが立った屋台が目につきました。屋台には南極越冬隊みたいな毛皮の帽子をかぶった赤い顔のおばさんが座っています。コーヒひとつください、と言うと、おばさんは紙コップに注いだコーヒーをぼくに渡して、二百円、と言いました。おばさんは黙ってぼくから受け取った百円玉をむすっとした顔で錆びだらけの缶に放りこみました。コーヒーはちょっと苦味が強いような気がしましたが、味は悪くありませんでした。もっとも、体が冷えているので暖かいというだけでおいしく思えたのかもしれません。
社食よりずっとうまいですよ。値段は半分なのに。
 焼きそばをほおばりながら安井さんが言いました。

      (episode Ⅲにつづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?