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イエローマンデー ~episodeⅢ 圏外 登山 トイレのしくみ~

社食、ということばを耳にしてぼくははっとして腕時計を見ました。始業時間まであと十分しかありません。会社に着くのが何時になるのかわかりませんが、間に合わないことは確かなのでとりあえず連絡だけしておこうと携帯電話を取り出して愕然としました。圏外なのです。安井さんにそのことを告げると、はあ、とか何とか、焼きそばをほおばっているせいかよく聞きとれません。早く会社に行かないと、とせっつくと、安井さんは黙って立ち上がり、食べ終わったトレイと割り箸をゴミ箱に捨てに行くと、ハンカチで口元を拭いながら悠然とした足取りで戻ってきました。ぼくがあせっているのをわかったうえでわざとゆっくりしているようにも見えましたが、連絡もなしに遅刻すれば叱られるのは安井さんも同じはずです。やきもきしながら見守っていると、安井さんはようやくハンカチをポケットにしまうと、じゃあ、行きますか、と公園の出口らしき方に向かって歩き出したのでほっとしました。
 公園を出ると、閑静な住宅街でした。相変わらず風は冷たく、空は真っ青でした。立ち並ぶ家はどれも古いのですが、門がまえや庭の木々、家のつくりのセンスは悪くなく、まるで映画のセットのようです。安井さんは知っている道なのか確信に満ちた足どりでまっすぐに歩いて行きます。会社に行くからには、当然地下鉄の駅に向かっているはずなのに、いつまでたっても駅らしきものは現れません。そもそも、こんな車二台もすれ違えないような住宅街の路地に駅などあるはずはありません。それに、もうかれこれ十分ほどは歩いているのですが、人ひとり、車一台出くわさないのも妙です。立ち並ぶ家々の窓はどこもカーテンが閉ざされて、お正月のオフィス街のビルみたいに人の気配が感じられないのです。あの、駅はまだですか。いたたまれなくなり、声をかけました。安井さんは足を動かしたまま顔だけ振りむいて、駅、と言いました。昼前に来客があるので、それまでに会社に着かないといけないんですが。ぼくも歩き続けながら口を動かしました。安井さんはそこでやっと足を止めました。
 会社に行きたいんですか?
 ぼくはことばにつまりました。会社に行きたいのかと聞かれると、行きたくないに決まっています。けれどもそれを素直に答えるわけにはいきません。豆腐を買いに行っただけなのに、豆腐屋に銀行の口座番号を尋ねられて素直に答える人などいないでしょう。質問の意図が不明だからです。そもそも、会社とは行きたいとか行きたくないではなく、行かねばならないところなのではないでしょうか。
 行きたくないんでしょう? ぼくも行きたくないです。なら、どうせだから、今日はゆっきりしませんか。
 安井さんは、今度は本当に笑っているようでした。とてもうれしそうな顔だったので、つられて気持ちがほっこりしそうになりましたが、すぐに現実に引き戻されました。そもそも、いったい、何が「どうせ」なんでしょうか。
 ゆっくりって、そんなことできるわけないじゃないですか、とつい強めの口調で言ってしまいすぐにしまったと思いました。安井さんは笑顔のままだったのでほっとしたのもつかの間、口元から笑みが拭い去るように消えました。
 じゃあ、一人で会社に行けばいいでしょう。そもそもこうなったのはあなたのせいじゃありませんか!
 とつぜん安井さんが大きな声をあげました。先ほどまでの穏やかなようすがまるでまぼろしのようで、びっくりして頭が真っ白になりました。ぼくは、誰かが怒るとすぐにパニックになってしまうのです。どっちが駅かすらわからないのに、一人で会社など行けるわけがありません。トンネルを通って元の駅に戻ることは可能ですが、例の女子高生がどこで待ち伏せしているかもしれません。ここで安井さんに見捨てられたら、家に帰ることすらできないのです。あわてて、すいません、とあやまりました。
 いいんですよ。気にしないでください。友達じゃないですか。
 安井さんがすぐ元の安井さんに戻って歩き始めたので、いたずらが叱られなくてほっとしている子供のように純粋な安堵で心がいっぱいになって他のことは考えられなくなり、無心であとをついていきました。
 しばらく進むと、家が少なくなってきて、畑や空き地が目につくようになってきました。道がだんだんとゆるやかな上り坂になり、気づけば舗装もされていない土や石を踏んで歩いていました。やがて、周囲にうっそうとした林が広がり、鳥のさえずりがあちこちから聞こえてきました。あれほど寒かったのに、いつのまにか背中のあたりが暖かくさえ感じます。どう見ても山に向かっているはずなのに、気温が上がるというのも妙な話です。歩き続けて体がほてってきたせいもあるのでしょうが、頬を撫でる空気そのものが明らかに暖かくなっているのです。
 坂はどんどん急になってきて、もう、完全に登山という状態です。いったい、どこまで行こうとしているのでしょう。スーツと革靴のまま頂上を目指すつもりなのでしょうか。安井さんに声をかけようとしたところで、便意をおぼえました。時計を見ると、十時半です。いつも決まってこの時間に便意がやってきて会社のトイレで用をたすのです。どうしたものかと迷いながらしばらく我慢していましたが、すぐに、どうしようもなくなり、安井さんにその旨を伝えました。
 ちょうどよかった、あそこにトイレがありますよ。
 安井さんがあごで差した先は草むらでした。そこだけぽっかりと木がはえていません。草むらの端は崖になっているらしく、遠くに山肌が見えました。どこにもトイレらしきものは見当たらないので、え、どこですか? と聞き返すと、
 ほら、あそこですよ。あの岩の端です。
 安井さんの指先をたどっていくと、崖の端に大きな岩が出っぱっています。その岩の上に、工事現場でよく見かけるクリーム色の仮設トイレらしきものが見えました。なんで、あんな端っこに、と思いながらも、かなり状況がひっ迫していたので、小走りにトイレに向かいました。
 ドアを開けてしゃがみこむと、便器には、すでに水が勢いよく流れていました。不思議に思ってよく見ると、水は、はるか下を流れていました。便器には底がなくぽっかりとあいた穴の下を清流が岩を噛んですごい勢いで流れているのです。ところどころ白く光るようすがやけに美しかったので、少しはばかられましたが、便意には勝てず、霧のような細かいしぶきにときおり尻をなでられながら用をたし終えました。
 トイレを出るとすぐそこに安井さんが立っていました。安井さんは崖から身を乗り出すように下をのぞきこんでいました。
 へえ、きれいですね。
 安井さんがのぞいていたのは、つい今ぼくが便器の穴を通して見た清流でした。穴からは見えなかったのですが、岩の間にぽつぽつと黄色や紫色の花が咲いていて確かにきれいなのですが、あの流れの中に自分の大便が混じっていることを考えると後ろめたくなりましたが、安井さんがこのトイレのしくみをしっていてわざと嫌味っぽく言っている可能性もないわけではなく、少し暗い気持ちになりました。

       (episodeⅣにつづく)

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