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科学哲学講義メモ 第二章

これは僕がAudibleで聴いた科学哲学の講義について適当にメモをまとめていくという試みの一部です。前回は第一章。今回は第二章。


結局は何が科学を科学たらしめるのか

前回の講義メモではポパーさんの「相手に『どんな証拠があればその仮説は否定されるの?』と聞く。そこで明確な『◇◇って証拠が出たら否定されるよ』を示せるなら、科学的!」という、科学判別法を扱いました。でも、これはそんな使えない方法かも…という話、そして、科学かどうかの判別マジ難しいッスという話を、今回はしていきます。

そもそもなんでこの問題を考えてるんでしたっけ

なお「それが科学か、科学のニセモノかどうか」なんて別に厳密にしなくてもいいじゃん、という気持ちの方がいると思います。確かにそうかも。でも世界を眺めてみると、科学ってめちゃくちゃパワーがありますよね。「科学的に正しい」というのは、日常においてはほぼ「正しい」と同義です。

科学か、科学のニセモノかどうかの判別は、そのすごいパワーを持つべきもの、持たざるべきものの判別をすることになります。たとえば、国の予算を科学の研究に配分したい!となったとき、「星座の位置と運勢の関連」についてお金をつぎ込むべきか、そうじゃないか。そんな実践的なところがあるので、この判別に多くの人が頭を悩ませてきたんですね。

科学を反証可能性で定義すると

ポパー氏の「反証可能性こそ科学!」というやり方は、どういう問題があるのか。端的に言うと、占星術を科学の中にいれてしまうか、物理学を科学からおいだすか…みたいなことが起きるんです。

多くのニセモノはちゃんと反証可能性を持っている

反証可能性がある、というのは「打ち立てた仮説が間違ってました!」と言えるかどうかという意味です。しかし、実は多くのニセ科学において、そんなことはお茶の子さいさいです。星の動きが僕たちの運勢に何らかの影響を与えている、というのが占星術の考え方のひとつです。そして、占星術は「来年、戦争が起きるぞ」など、大胆な仮説をつくることができます。そして、この仮説は反証可能です。そうですよね?戦争が起きるか、起きないかを検証すればいいだけですから。占星術はその仮説において、反証可能性がある。そうすると、ポパー的には「科学だ!」ということになります。

仮説が当たらないからダメなんですよとも言えない

でも占星術は仮説を間違いまくる気がします。そんなに間違うのは、科学じゃないのでは!しかし、待ってください。仮説を立て、観測内容や実験結果と照らし合わせて、理論や仮説を修正する。これは、科学でよく見かける形じゃありませんか。気象学だって、天気予報を間違えます。物理学でも、たとえば一般相対性理論と量子力学を一緒につかってブラックホールに関する仮説を立てても、観測結果と合致しないことが分かっています。占星術も、別にニセモノなのではなくて、まだ科学としてそういったステージにいるだけなのでは?さらに、間違うことこそ占星術が反証可能性を持つ証拠ですよね。反証可能性があるからこそ、間違い=反証が得られるのです。

もっと別の方法がないか探してみる

このままでは科学とニセモノを判別するのが困難です。私たちは「かがくのちからってすげー」と言うわりには、「科学とは何か?」もしくは「科学ではないものはなにか?」について、イメージでしか語れないのでしょうか。

進捗があるかどうかが科学の特徴です

これまで人類が発展してきたのは、科学の発展があったからです!積み上げてきた結果の発展があったものだけを、科学とするという科学判別方法はどうでしょう。しかし、これも上手くいきませんね。占星術だって進歩しています。たとえば新しい星の発見に応じて内容は変わっています。また、逆にある分野において研究が進めば進むほど、進歩が鈍ることも考えられます。たとえば化学の基礎は何年も変化がありません。変化や進歩があることそれ自体を科学か否かの判別に使用するのは難しそうです。

他の理論よりも精度が高いのが科学の特徴です

何かの現象を説明したり予測をしたりするときに、その中でもっとも優秀なものを科学とするという科学判別方法も見てみましょう。精度のよい理論Aと精度のわるい理論Bがあったとします。理論Aが科学です。しかし、これは問題ですね。理論Bが発展して、精度がよくなったとしましょう。そうすると、理論Aは何もかわっていないのに科学から科学のニセモノになってしまいます。なにもしてないのに。また、他の競合する理論がなければ、何をやってても科学ということにもなりますね。これでは困ります。

これまで科学をやってきた人たちが認めたものが科学です

科学に携わってきたひとたちのあいだで認められてきたものが、科学なんですよ!という科学判別方法もあるかもしれません。しかし、これは歴史的に「科学の権威」「科学者の集団」がたくさん失敗してきているので難しそうです。科学界の認定を受けたけど、実は科学界自体がイデオロギーに牛耳られており嘘を追認していただけだった…というのがソビエト時代のルイセンコ論争と呼ばれる事件です。また、これは野良科学者みたいな存在を全く否定することになってしまいます。

起源が正統な探求であるものが科学です

金儲けや宗教とか、そういう科学ぽくないものを排除して残るのが、科学なんですよ!という科学判別方法も考えられます。科学の判別方法に「科学ぽい」みたいな言葉を入れてしまう時点でかなり厳しいですが…そもそも現代の科学と呼ばれているものの基礎をつくってきた歴史を振り返ると、研究の動機に言及するとほとんど成立しなくなってしまうことが分かります。錬金術なんかは有名ですし、今でも「神サマのことを理解したいから」と研究に勤しむ科学者はたくさんいます。

仕組みをしっかり説明できているものが科学です

何が何をどういう仕組で動かしているのかなど、その内実が分かっているものこそ科学なのだ!という科学判別方法はどうでしょう。確かに、科学のニセモノは『よくわからない超常現象』みたいなものをベースにしている気がします。しかし、占星術において「僕らの活動に星々が影響を及ぼしているんだよ」というのと、物理学において「僕らの活動に質量が影響を及ぼしているんだよ」というので、どれほど質的な差があるでしょうか。わからないものを扱えないとしたら、科学には何が残るのでしょう。

科学と科学でないものの違いとは

そんなわけで、科学と科学のニセモノを分ける問題に対する良い解決策は見つかっていないと考えるのが哲学の世界では主流です。特に「科学なんだけど微妙なやつ」とは言えても、「科学ではないやつ」になるとよくわからないんですよね。判別方法はもしかすると、科学全体に対しては存在せず、個別の理論や、個別の手法など、それぞれに対してつくられるべきなのかも知れません。もっとも、科学とニセモノに関する判別方法がまだ見つかっていないからといって、この先も見つからないとは限りませんが。

これからどうする

こんな曖昧な状態で、「かがくのちからってすげー」について深掘りしていくのは違和感があるかもしれません。ですが、これからの講義メモではしばらく科学とニセモノの境界ではなく、科学の中で行われている活動の中身それ自身について深掘りしていくことになります。それがなんであるのか?それがなぜそうであるのか?などを考えていきましょう。たとえば、長さとは何なのか。なぜそれが、長さとして僕らがみんな一緒に認識できると思っているのか。科学の輪郭はぼやけているかもしれませんが、科学の中身はハッキリしてるハズ…ですよね?

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