便利な時代に不便で生きたい
数年前、衝動でiPadを買った。学生時分の話だ。
そこまでアルバイトで稼いでる訳でもなかったが、どうしても欲しかった。給料日の翌日に振り込まれた給料の殆ど全てをおろして買いに行った。
買った理由は、「iPadで絵を描きたい」という欲が3ヶ月くらい沸いていたから。あともうひとつの理由は、「持ち物を軽くしたい」という思いが少しだけあった。
後者に関しては、便利を求めていた。
便利という言葉通り、iPadひとつで色んな勉強が出来る。数年前はiPadに数種類の教材を取り込んで、解答用紙もダウンロードして、 音声データもiPadで開いて、勿論調べ物もiPadでしていた。そこで学んだことはiPad上のノートアプリに書きこんだ。1ヶ月の予定もiPadのスケジュールに覚えさせた。リュックとは無縁で、小さなバックで勉強に向かっていた。
想像通り、便利な毎日。
でも今の私はと言えば、リュックにあれもこれも詰め込んで不便を背負って勉強しに行く。
しっかりと厚めの教材を数冊詰め込む。
ノートも持ち歩く。
書くためには筆箱も入れとかなきゃ。
パソコンも入れる。
本を入れておくこともある。
タンブラー、ポーチ、充電器、、、
不便を背負う。
iPadを捨てた訳ではなく、iPadも入れている。便利なのは便利で変わりない。(お世話になってます)
便利と不便を入れて背負う(※は?)
便利になった世の中だけど、不便が広げてくれる世界はあまりにも広くて、あまりにも想像できなくて、楽しい。
詰め込まれた教材の使用感に達成感と満足感を得る。
詰め込まれたノートにはそこにしか書けない質の文字で夢を書く。
インクの減り具合と相談して大好きな文房具屋さんに行こうと計画する。
スタバでパソコンを広げて、雰囲気に酔いながらこのnoteを書いてみる。
移動中は文字と学びが詰まった本を開いて、たまに顔を上げた時に見える景色の中で休憩する。
不便の中にある引き出しの奥行が案外広い。
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