未来の俺はなにしてんのかな。

毎回人生の節目節目で、この問いはよく自分の中に沸き上がってくる。
よく、その時の気持ちを書き残して、未来の自分になって読もうと思って書いたりしたけど、読み返したことは結局ほとんどない。そもそもどこにいったか定かではない。
未来の自分は意外と忘れてるらしい。風呂からでたらシャンプー買うの毎回忘れるくらい。

結論、過去の自分に言うなら、悪くねぇよ、と。
過去の俺もわかっているとおりだと思うけど。

運命論はあんまり好きじゃないけれど、理解はできるね。

まぁ、というのも最近またそう思うようになってきて、今回は逆に節目という節目が見あたらないものだから、ちょっと不安で。
ふと、気づいたら過去の自分が見えなくなるくらいのところまでいってしまっているような気がして。

先日、友人の個展を見に行ったときに、またわき上がってきたこの気持ち。
行き先がすごく気になる友人と、ちょっと知り合いだったくらいの絵で表現しようとしてる人の2人の個展だったのだけれど。

なんだか2人とも手探り、というか自分をがんばって見て、歩いてるんだなと勝手に思ってしまって。
作っているモノよりも、モノを通してなにを考えてるのかなとか、これからどうしていくのだろう、作品とどう歩んでいくのかな、どういう気持ちで作ったのかなと、その人個人にたいして思うことの方が多かったかもしれない。
悩んで、進んでいく人はやっぱりどうしようもなく魅力的で。自分もそうなれるならと思う。怠惰な自分よ。

改めて
作品=自分
ができあがることに対しての憧れを感じる。

特にいままで、あんまり絵を描いてる人って出会ったことなかったから、絵という表現方法、コミュニケーションの手段はやっぱりおもしろいなぁと思った。流れのない表現方法。
立体、空間、プロダクト、システム、絵、これら言葉を介しない曖昧なコミュニケーションを人間はまだまだ使いこなせてないんだろう。
メッセージという映画を思い出す。

全然わからなくて、伝わっていなくても、曖昧なコミュニケーションの曖昧さはなにかを必ず含んでいて、言葉という確定的に共有された網からこぼれ落ちていく、感覚を共有できる。これほど素晴らしいものはない。
うれしいと語る顔に、背に、僕はなにを想うのか。
使いこなせないものを表現していくこと。
実現したときの感覚を僕はまだしらない。

僕にも、何かできるのかもしれないなと、まったくの自己満足がもしかしたら自己満足にならない可能性が、曖昧さにあると思えるならとても希望があるなと思えた。

彼らに捧ぐことを契機として、自分勝手にも、自らの導とさせてもらいたい。
何かできたか?未来の俺。

読み返さないことを祈る。

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