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夕陽が太平洋に沈むとき

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2023年7月発投稿 最初の連載小説
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夕陽が太平洋に沈む時 【第13話】 最終話

夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】 「ごめん、僕は不甲斐ない夫だったな。君を新婚初夜に外国で一人にさせてしまってどんなに不安だったか」   剛史は麻衣の手を引いてベッドに座らせる。   もし、剛史がここで私を抱いてきたら、この朝陽の中で、コニーに痛いほど鷲づかみにされた胸が照らされたならば、青あざが出来るほど吸われた首筋を見られたのならば。  麻衣は焦燥の中で考えを纏めようとする。  剛史は言う。 「タクシーを30分後に予約してある。申し訳ないが、君のものを急いでパ

夕陽が太平洋に沈む時 【第12話】

夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】 「そうだな、そんなことを君に訊ねたこともあるな」  コニーの次の言葉は難解なものであった。 「Going for wool and coming home shorn.(羊毛を刈りに行ったが逆に毛を剃られて帰って来た)、という表現を知っているかい?」  麻衣は即座に首を振ったが、ふと、ある表現に思い当たる。 「日本語の言い回しだと、ミイラ取りがミイラになる、という感じかしら?」  コニーは哄笑する。 「ミイラ取りか、それは良いな

夕陽が太平洋に沈む時 【第11話】

夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】  麻衣はその後の言葉が続かなかった。怒りで身体中の血が逆流し始めているかのようにも感じられる。    麻衣は思わずコニーを引っ叩こうとするが、腿の中途からばっさりと切れている脚が視界に入ってしまった途端、上に振り上げた腕から思わず力が抜ける。 「殴りたいなら殴れば良い。健康体でないからといって同情は無用だ。同情なんて却って迷惑だ」  そう言い放ちコニーは、ベッドに立て掛けてある松葉杖を取ろうとする。    麻衣は同情をするな、と言われた

夕陽が太平洋に沈む時 【第9話】

 夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】  10年前に自分がコニーに向かって唐突に切り出したその一言が、その朝、一晩を一緒に過ごしただけの男の口から発せられていた。  麻衣は、コニーに求婚した時、彼に関しては何の知識も無かった。しかし、あの時は彼が運命の男だと信じ込んでいた。彼しか目に入らなかったのだ。自制が効かないほど彼に触れたかった。  今の剛史の心境は、あの時の私と同じなのだろうか。  剛史は冷静沈着を維持したまま麻衣を見つめていた。麻衣の返事を不安そうに待っている、

夕陽が太平洋に沈む時 【第10話】

 夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】  麻衣もその女を振り返った。  まったく面識のない女ではあったが、麻衣には、あたかも彼女の悲哀が一瞬伝染したかのように感じられた。 「私もよ、私もなの。私にも貴方の心情が理解出来るわ。人を愛するということは、時にはとても悲痛な事よね」、麻衣はそう言って女を抱きしめたい心情に駆られた。  すでに夜は更け始め、時おり白いまだら泡が浮かび寄る海は薄気味悪さを演出している。  しかし、この場所がホテルの敷地であるという事実が麻衣を安心させ

夕陽が太平洋に沈む時 【第8話】

 夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】  剛史は、麻衣の問いに対して、数秒間考えを纏めているようであった。  私は彼を困惑させるような質問をしたのかしら。随分と返答に窮しているようだわ。  剛史は口を開いた。 「好みだ、好みじゃない、と単純に返答出来るような性分ならば楽なのだろうが」 「返答して下さらなくてもいいわ。貴方を困らせるつもりで言ったわけじゃないから」 「困っているわけではない。出来るだけ論理的に答えようとしているだけだ。そうだな、このような例がいいかな。こ

夕陽が太平洋に沈む時 【第7話】

夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】 「いいわ、どんな分野だって初めての時がある。とりあえず原文に忠実に訳して、特許特有の言い回しはあとで直してもらえばいい」    麻衣は翻訳を始めた。  しかし特許明細の翻訳はそう単純にはいかなかった。何回読んでも何通りにも取れるような文章が多かった。それでもようやく1枚目の翻訳を終えた時、PCの時計は午後8時を示していた。  外資系企業であることもあり、クリスマスイブのその晩には、家族のある社員、あるいは若い女性はすでに退社していた。苦

夕陽が太平洋に沈む時  【第6話】

 夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】  ベッドは乱れ、招かれざる客の匂いが染み付いている。  麻衣はひたすら、叶の存在、声、匂い、手の感触、窪んだ瞳、麻衣の下半身で繰り広げられた行為を、拭って、洗い流して、擦り取って、記憶の中から抹消したかった。  叶を訴えるべきか。  答えは簡単には出ない。  外に立っているのが誰かを確認せずにドアを開けたことが、再度悔やまれる。    麻衣はベッドからシーツを剥がし、丸めてクローゼットの奥に押し込み、ベッドには香水を多少過剰に振り

夕陽が太平洋に沈む時  【第5話】

夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】  この人は、それほど狡猾で悲愴な嘘まで付いて女を誘いたいのか、と麻衣は嫌悪感を催した。衣装合わせの時には、必要以上に麻衣の身体に触れて来る時もあった。 「小野田さん、貴方の勝手にすればいい。身に覚えがないことだから私にはどうしようも出来ないわ」  麻衣はそう言い残して席を立つ。この撮影チームとふたたび一緒に働くことはないと確信した。 「みなさん、ロケの期間中、本当にお疲れ様でした。私も少し疲れました。お休みなさい」  小野田が焦燥し

夕陽が太平洋に沈む時  【第4話】

 夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】 「結婚したからって何も複雑に考えることはないよ。君は、今までの仕事やライフスタイルを続けたければ続ければいい。僕よりも早く起きて飯を炊いて待っていろなんて言わないよ」 「わかってるわ。そんな人だったら結婚しなかった」 「その代わり僕が浮気をしてもガタガタ言うなよ、とも言わないよ。浮気したくなるほど僕達の気持ちが離れてしまったら別れよう」 「ハネムーンなのにもう別れ話?」  麻衣は軽く苦笑する。  剛史が本気でそう言っているのか否

夕陽が太平洋に沈む時  【第3話】

夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】  麻衣は即座に言葉が出ない。  この期に及んで、再び嘘をついてみても、この男にはおそらく見透かされてしまう。素直に肯定してしまえば、何らかの結果が出るかもしれない。でも、その結果が必ずしも望ましいものになるとは限らない。  麻衣は立ち止まって再考する。  そもそも、私の望むような結果ってどんなこと?叶さんに指摘された通りだわ。なりゆきで生きて来た私は、望むべきものもわからない。  麻衣は、自身の心情を可能な限り真摯に描写しようと試み

夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】

  本文  日中は、クリスタルの欠片を散りばめたかのごとく輝いている太平洋も、夜のとばりが下りたあとは、闇の中で時おり波音を立てているだけである。  麻衣は、漆黒の中に目を凝らして何かを探してみようとするが、そこからは一糸の灯りでさえ浮かんで来ない。  背後からは50年代の音楽が流れて来る。エルヴィス・プレスリーのlove me tenderである。ホテルの部屋のサイドテーブルから流れて来ている。  麻衣はバルコニーの椅子に腰を降ろした。ルームサービスから届けてもらっ

夕陽が太平洋に沈む時  【第2話】

 夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】    二人は叶のホテルの部屋に着いた。  叶はドアを開いて麻衣を中へ促す。部屋の奥にはベッドの端が見える。  麻衣は、仕事においては叶を尊敬し信頼している。  とは言え、叶も男である。夜間に男の部屋へ誘われる、ということの意味を麻衣は知り過ぎるほど知っている。南国のリゾートホテルの一部屋で一緒にワインクーラーを飲んで、「また明日」、と帰してくれるであろうか。強引に誘いを振り払って、気まずくなっても困る。明日も撮影があるのだ。  こ