新しい道がはじまる

節分を前に家族で一日ゆっくり過ごせる日ができた。

沼津で寿司を食べ、アウトレットで買い物をし、温泉に浸かって過ごした。

毎日仕事ばかりしていて、大変だ!と脳内にずっと僕のchatterは語りかけているのがわかる。

別になんてこともないことが大変になっている。

大きく変わる時だからきっと大変なんだろう。

僕は何をやっていても自分がそれをするには今のままでは力不足だと思っている。

周りが凄い人たちに見えるし、こんな僕がまともにやり合って勝てるわけがないと思ってしまう。

強い人への憧れというよりは、足りないことへの不安が大きい。

30年も身体の事、人間の事をやってきてもまだこの不安は拭えない。

なれないものにはなれない

なりたいものがあってもそれ相応の資格がないものにはなれない。

医師免許がないと医師になれないように、医師のように振舞ってもそれは医師ではないどころか、違法行為にもなりうる。

これからでも資格を取ればなれるもの、資格などなくてもなれるものもある訳で、それになるためにはどうすればなれるのだろうか?

その中でも経営者には資格はいらない。

自分がやると決め、会社を登記すれば1円からでもなることはできる。

必要なのは事業計画とそれを進めるための資金調達だ。

そして、事業を継続している以上は経営者でいることはできる。

治療家という呼び名は僕にとってなるべき資格がないものなのかもしれないという思いがずっとある。

身体屋にはなれても治療家という呼び名は相応しくないのかもしれない。

語る資格のあるもの

なる資格がなくとも、語る資格というのはある。

自分が人生を費やしてきたこと、一生懸命取り組んできたことなどは語る資格はある。

僕が身体屋として語る資格があるものは30年間、延べ40万人以上の身体を診て、観察して、痛みや機能を改善してきた事例だろう。

また、生活習慣の改善などに役立つマインドセットの仕方などである。

健康*身体
をずっと探究してきた30年。

医学的な部分も含めながら、運動学や心理学なども経験的に身体学を絡めたものだ。

あとは曲がりなりにも30年以上この仕事を続けてきたこと。

今は職場は変えてキャリアアップする時代だけど、仕事自体は変えないのではないかな?と思うし、自分の仕事をやり続けていく中での学びや葛藤してきたことは少しばかり語れるのではないかと思う。

健康*身体*仕事
僕がずっとやってきたことはこの3つだ。

経営者になるために

僕は所謂"職人"としてやってきた。

会社を任されてからもずっと職人だった。

技術職である以上

知識、技術、精神

心·技·体

そういうものを鍛錬してものにしていくという発想があった。

でも今となってはそんな職人じみたことでは流行るはずもなく、いかに社員が患者さんやお客さまに集中して仕事を全うできるか?というところを整備すること。

社員のやる気に関わらず、学習でき、お客さまから喜ばれ、昇給できるシステムを作ること。

それを持続させるためのビジネスプランを作ること。

これが仕事になる。

経営者は社員に、社員は顧客に。

このエネルギーの流れをしっかり作っていくこと。

健康、身体、仕事

これをテーマにビジネスプランを建てていく。

新しい道のはじまりはそのビジョンを持つことからだ。

職人として意識していること、マニュアルの中で学んだこと

身体に関わる仕事は職人タイプとマニュアルタイプがいる。

僕はマニュアルタイプの会社で育った職人タイプだ。

職人の良さは自分で考え、意見を持ち、自分のスタイルを確立出来る事だ。

マニュアルの良さは画一的で個性は薄いが地雷を踏むことが少なく、合う合わないが少ない。

ただ、どちらにもルールはある。

患者さんを失わないために、患者さんの安全のために、患者さんが良くなるために必要なことはルール化したい。

職人タイプでやってきて

僕が必要だと考えることは

*医学として取り組む部分
*運動学として取り組む部分
*身体性を哲学する部分

この3つがある

この3つを"語る"事で理解してきたが、そこで前提になるのが科学として語ることの重要さだ。

科学として語るには科学の言語が必要になる。
科学の言語で語るには科学の思想が必要になる。

科学と非科学の違いは再現性があるものかどうか。

骨盤はゆがむというのは非科学だが、仙腸関節の可動性について語るのは科学だ。

氣功というと非科学的だが、触れ方の変化で起こる事象は科学的に語れる。

なぜ、科学を重視するかといえば、いくつかのメリットがある。
①事実が明確化される
②適切な言葉選びができる
③共通言語で語り、検証できる。

僕はなるべく患者さんに負のバイアスをかけたくない。

そのためにより前向きで事実を伝える言語を使いたい。

そのひとつが科学で語ることだ。

こうしたこだわりが職人と呼ばれるようになったのだろう。

マニュアルタイプの会社でこんな考えになったのは、分かりやすく、簡略化するとそれで満足する者が出てくる。

それが売上か、技術かでぶつかった結果として、僕は技術を選んだ。

本当は売上も技術も両方必要なのに、その分断を招いたのは売上が評価の基準になった事で、技術が軽んじられた感覚を覚えたからかもしれない。

マニュアルタイプの会社にも良い点は沢山あるし、職人タイプの会社でも売上は至上命題だ。

どちらも結局は患者さんの利益を売上にしていくことがビジネスとしての肝なのだから、どちら寄りというのはあれど、どちらが正しいということではない。

もちろん、科学や技術重視にもデメリットはある。

僕が今思うのは

集客と価格設定、市場と競争力を分析し、スタッフに仕事を回すこと。

その仕事に相応しい技術や能力を発揮し、顧客の離脱を防ぐ。

経営サイドは離脱率を分析し、集客にかけるものと、離脱を防止する施策を立て、実行する。

集客と教育の2本立てでPDCAを回す。

社員サイドには技術と人間力の成長を数値化または可視化する必要があり、そのひとつが売上だと言える。

売上か技術かではなく

売上のためには技術が不可欠であり、技術を高めるには集客とリピーターが必要になる。

経営サイドと社員サイドの役割をしっかり果たせば、売上が上がるしくみがある。

そうする事で職人が活きる環境が整うのではないだろうか?

マニュアルの作り込みが肝心

患者さんにはストーリーが大切だ。

その症状が出た経緯もあるし、今までの治療経験や家庭や職場環境なども含めて、全て治療の材料だ。

接骨院や整体に来る事が必ずしも治すこととは限らない。

もちろん、来たからには身体に快適な変化は欲しいだろうが。

職人になりすぎるとこの辺りがおざなりになることもある。

症状を治す前に人と人だということを前提にしたい。

そこは人との関わり方、サービスマンとしてのあり方になってくる。

職人の弱さはこの部分だと思う。

患者さんを良くしたいと思うが故に、入り込みすぎてしまう。

サービスマンとしては失敗だろう。

だからそこは相手を傷つけないマニュアルが必要になる。

では、マニュアルの良さを話してみよう。

基礎基本

これを叩き込むのがマニュアルだと思う。

その基礎基本の軸にあるのが見立てだ。

患者さんをどう見立てるか?

どこをどう見て、何を判断するか?

触れ方や関わり方など大切なことについて共有するにはマニュアルはとても便利。

ルールなんかもマニュアルに内包される。

出来ない人を出来るようにするためには、見て学べでは難しすぎることもある。

見て学べではなく、そのルートを示してあげるのがマニュアルの最大の価値だと思う。

また、"はずれ"を生み出さないのもマニュアルの強みだ。

職人型の職場だからこそマニュアルの作り込みをしっかりしたい。

そんなところだ。

人間を育てることへの誤解

人に関わる仕事は人間力が必要になる。

人間力を育む

そんな会社を目指してきたがいつも失敗するのも僕だ。

まず
①誰かの感情によって凹むことがない
②誰かに言われてモチベーションが下がることがない

身体の事も、運動や健康のことも好きという感情の前に仕事だからやって当たり前という感覚がある。

僕は調べて、知って、やってみて

ということが子どもの頃からの習慣だから、それはずっとできる。

また、何かをはじめたら嫌な奴がいても、嫌なことがあっても続けられる。

周りの環境より、そこで許されている限りは環境を変えるより自分の力で環境を変えてやるという意思の方が強い。

そこから世の中を見ていると、なんだか周りが弱く見えてしまう。

また、厳しさが愛だと思っているし、困難が成長になると信じているから

褒められたり、感謝されるのは努力していれば当然すぎて、受け取りはするが真に受けたりはしない。

そんな感性だから指導が厳しくなりがちだ。
自分では全く自覚もないが部下からは厳しいと言われるのだからそうなんだろう。

人を育てるには

甘くする必要はないけど、厳しくなくてもいいのかもしれない。

ただ、基準は作る必要がある。

*身体を見立てる基準
*身体に触れる基準
*身体を指導する基準
*身体を治療する基準

基準は○か×かだ。

あとはそのベースになる基礎基本。

*構造
*動きのしくみ
*痛みと鑑別
*人を見る目
*人に触れること

この辺りを誰でも理解出来るように明文化する。

その土台としての
理念やビジョンを基に法整備し、契約とルールを交わし、年単位で見直しが必要になる。

人を育てるのもシステムありきだ。

こういう部分を学べでは人は育たない。

そして
社員の世話をするのが経営者の仕事ではない。

はたらくということ

とはいえ
働くということの捉え方もそれぞれだ。

僕のような自分に足りないものを満たすように働く人間は稀だ。

治療家じゃない自分
経営者じゃない自分

そういう自分が心地よくない。

自分のことが認めらないのだろう。

ここ数年で自分の等身大が見えてきて

僕は整体と治療に全振りしてきた古い職人タイプの人間で止まっていた。


革新的な経営者になりたかったのに、ただ新しい考えばかりを取り入れて混乱しただけだったなと。

それよりも経営の基礎をしっかりやり、社員に役割を与え、集客し、また事業計画を立て、雇用する。

こういうループをつくる。

はたらくというのは、本来は人々の心を満たすものだと思う。

やりたくない事や苦手な事、つまらない事や嫌な思いばかりだけど、きっとその中で積み上げた経験が自分を満たすことに繋がるのだと。

では、経営者をやった僕はいったいどんな事で自分が満たされるのだろうか?

今の時代らしく、品行方正にきれいで社員がやり甲斐を持ち、沢山の人が訪れ、健康と笑顔を享受した先に僕は何で満たされるのだろう。

新しい道のはじまりは清々しく明るい気分じゃなかった。

誇りを捨て、やってきたことを人に与え続け、自分を押さえて、それでも得たい経験はなんだろうと考える。

孤独が待っているような感覚にもなる。

僕が経営者として語る未来はあまり想像できない。

でも、この道が目の前にあるのだからそれはきっと僕が望んだ道なんだと思うし、ここから逃げたいとも思わない。

目の前にあることから目を逸らさずに一歩一歩進んだ先に何があるのかを楽しみにしたい。

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