自分らしく生きようって言葉に疲れた人のための身体論

最近の世の中はすぐに炎上したり、指摘されたり

周りに無関心のようで、無関心でない

繊細なハートの持ち主たちは口々に

生きづらさ

を語っている。

弱者が守られやすくなる反面、様々なアドバンテージや特権と人間性が別物として評価されるようになって、聖人君子として生きなければ、人の模範にならなければとそんな器でもないはずなのに目指さざるを得なくなるとしんどくなる。

そもそも日本神話を読み解いてみてほしいのだが、日本の神様は大抵やらかしがちだ。

失敗して、やり直して
失敗して、やり直して

全くといって人徳(神徳?)がない。

そんな国のはずなのに、なぜこんなにも他人様に厳しい国になったのか?

日本人は他人の文句や批判を最も言っている民族らしいが、それも個の分離が出来ない事が背景にある気がする。

そんな社会の中でやたらと

自分らしさ

を啓蒙する人が15年くらい前から沢山出てきた。

僕もそんな人たちと少なからず関わってきて、ようやく見えてきた事がある。

今回は自分らしさについて身体論的に語ってみようと思う。

自分らしさとは何か?

自分らしさとよく目にするが、そもそも自分らしさとは一体なんなのかが分からないのではないだろうか?

大抵、私らしくないと言うのは自分が経験した事ないことや、分からないことに対して取り組む時にうまくいかない保険のように言われたり、ノリや雰囲気が合わない時に言ったりしているように感じる。

そこにストレスを感じ続けて頑張っていると、適応障害などにもなりかねないのでもちろん注意は必要だが、自分が経験した一側面だけを見て、このような思考に陥ると、今の経験を否定的にしか捉えられなくなる。

これが痛みを感じさせ、不快さや疲労感を募らせていくと心身のダメージとなって積み重なる。

この時に自分の可能性や未来の自分をイメージ出来る場合は逆に成長という考え方になり、その負荷に対する耐性がつきやすくなる。

自分らしさというのは自分が経験したことのある、ラクな自分であり、心理的に守られたローリスクな状態を指すことが多い。

また、他者の考えを自分の言葉と錯覚してしまい、その言葉との共感性で自分らしさを語る場合も見受けられる。

自分らしさを強調する人のパーソナリティには"自分"がない場合も多々ある。

自分は多面的であり、絶えず進歩、成長している。
それは他者を通じて表面化し、課題解決しない以上、ストレスとして感じやすい。

この事を理解しておくと自分探しなどしても答えがないことが分かるのではないだろうか?

自分らしさという言葉を都合よく使えば、そこに留まるための言い訳になってしまうかもしれない。

快、不快という原始的な身体感覚

では、自分らしいもの、そうでないものは分別できるのか?

という話をしていこう。

生き物はすべて刺激に対して反応している。

この一番原始的な反応が快か不快かだ。

あらゆる感覚は刺激に対する反応だと仮定すると、目にしたもの、音や声、匂いだけでなく、人との距離感まで反応している。

この五感的な情報と肌感覚が刺激として受信され、それを快、不快で振り分けている。

これは感受性の高さと経験からなっており、何度も同じ経験をすれば同時にその感度は高くなる。

この反応レベルは無意識であることが殆どであるので、あまり意識的に快、不快を認識している感覚はない。

快であればリラックスでき、不快であれば緊張するなど知覚としての入力を自律神経系でアウトプットすることで感覚に感情が加味され、脳内のホルモン分泌を促し、知覚の変化を生む。

そう考えればこれは全て知覚に対するモダリティの認知であり、経験により強化されているものだと分かる。

快ならば自分らしい、不快なら自分らしくないと捉えるとそこに矛盾が生じるのがわかる。

快も不快も自分の感覚であり、自分の経験してきた文脈であるからどちらも自分でしかないのだ。

感情のベースにあるもの

感情のベースには愛、不安のふたつの要素に分けることができ、このどちらかを受け皿にして行動の指針としている。

人間は感情によって行動が決定されやすく、頭でいくら理性的に判断されたとしても、感情が向かないと行動には結びつかないし、自分の行動に納得できず、モヤモヤしたものを抱え続けることになる。

感情は動く力にもなり、止める力にもなる。

中国に伝わる五行では五情といって
怒、喜、思、憂、恐を指す。
これに悲、驚を合わせ七情とも言う。

五行とは性質に対する五つの分類のことだ。
感情を五つの性質に分けることで、その感情のメタファーと結びつけやすくなり、またその感情的表現をしやすい傾向と性質が理解しやすくなる。

例えば怒りは五行で言えば木の性質で、木のように上へ上へと伸び、広がる。

怒りはその性質のため成長や若さ故の感情でもある。

なんとなく言語化すると理解しやすくなるのではいか?

このように感情に意味を持たせると解釈がラクになる。

また情には主観的な意味が含まれるため、感情は他人には分かりにくく、客観視出来ない。

よって、感情を理解してもらおうとすることはほぼ不可能であるため、共感出来た時の安心感はかなり大きなものになる。

感情は理解するものではないということだ。

感情は反応によって湧き上がることがほとんどで、コントロールには訓練がいる。

そこがわかると感情的に生きることは悪い事ではなく、コントロールできるようになれば毎日が豊かになるだろう。

ただ、感情的な人は人との間で軋轢を生じやすいため、そんな自分に悩みやすく、人間関係のストレスを溜め込むと嫌な気持ちになる。

嫌な気持ちと不快はリンクしているため、自分らしくないのではないか?などと考えてしまう人もいそうだ。

感情は今の状態であり、心の様であるから、ただそれを眺めて過ぎ去ればいい。でも、思考は止まらず今までのことや関係ないことが溢れてきて頭の中を占め始めると悩みとなり、感情が幾重にも重なり、湧き出る。

その代表が怒りだ。
怒りは単体では存在せず、二重感情の末に表出し、行動のエネルギーとして最も力を発揮するため、衝動的になりやすい。

だが、その怒りのベースにも愛と不安がある。

愛と不安は肌感覚に沁みるように記憶されている。不安を抱えてきた皮膚の情報では、不安に反応しやすくなり、愛を感じてきた皮膚の情報では、愛に反応しやすくなる。

愛、不安は快、不快に対する周囲から向けられたエネルギーに対する共感覚の結果、身についた感受性でもあるわけだ。

それがアーリートラウマという、物心つく前に感じた心理的傷によって、あるはずのものがないと感じることで痛みを感じやすい思考になる。

感情と思考はまた別の要素になる。

思考は経験によるインプットから起こる想念

起こっている出来事に対し、どう体感し、どう受け止めるかはその人の経験と思考の傾向による。

考え方の傾向にはネガティブ、ポジティブ、自責、他責とがあるが、ネガティブな人は過去に、ポジティブな人は未来に思考が向きやすい。

過去に意識が向くと、過去にあった出来事や経験からの学習を元に考える。

過去には成功も失敗もあり、それを糧にするのだが、自分の過去の経験に不足感や欠損を感じやすいとそれを理由に思考が停止しやすい。

また、未来に意識が向くと夢や目的意識は持てるが、そこから逆算出来ない場合はがむしゃらに頑張るだけで、達成できずにやがて力尽きる。

未来思考は楽天的になるが、実がないとただの夢想になってしまう。

自責、他責の傾向も大事だ。

自責思考の人は自分に問題があると捉える一方、自らの行動次第なことも理解ができる。

ただ、行動がネガティブ、ポジティブの嵌る思考によって分断されると現実化出来なくなる。

他責思考の人は他者や環境に問題があると捉える一方、環境さえ整えばなんとかなると理解する。

そのため、常に環境を変え、関わる人を変える事でその理想を叶えようとする。

ただ、この環境整備がネガティブ、ポジティブの嵌る思考に陥ると孤独や孤立を感じたり、自分の存在価値を否定するため、環境が育たなくなり頓挫する。

このように考え方と行動は繋がっており、計画性、分析、直感、創造力、管理などの能力が付随する事で整備されやすくなる。

能力には経験と知識、その人の特性があるから次に協力者の存在が欠かせなくなるわけだ。

単なる個としてはこのように感覚ベース、感情ベース、思考+経験ベース、行動ベース、能力ベースという5つのベースがあり、これらが神経を介した反応によって、今に見合う状況を作り出している。

そのままでいいのではなく、"ある"ままという視点

少し前にありのままという言葉で人を肯定する表現がもてはやされた。

ありのままでという肯定的な表現は、変わろうと苦しむ人を安心させ、安らぎを与えた一方でその言葉に寄りかかった人を同時に増やした。

ありのままという言葉はそのままではないという事に気づかずに心理的な成長をしなくていいと肯定してはならない。

心理的な成長は発達心理学の分野であり、幼少期からの果たせない欲求が大人になってもその経験に満足しないと様々な問題行動として表出するという説である。

たしかにこれはありうる事ではあるのだが、これを理由にする事は大人の社会では通用しない。

社会の中に心理的安全性の担保が必要とされるのは、この問題の障壁を下げるのに役立つからであろう。

しかし、それをするにはその社会自体が成熟し、そこに属する人の知能レベル、目的意識、報酬、保障などが十分機能し、役割や仕事が与えられてこそ、はじめて機能する。

環境と人材が整わずに心理的安全性を作ろうとすると、理解レベルが低い人の方が怠惰とそれを笠にした主張を繰り広げる事になる。

心理的な幼稚さは"ない"という不足感と不安感からくる。

存在価値、愛情、欠陥性、自己否定などがそれを強く誇張し、自分の足りなさにフォーカスする。

自分をまずは満たす

そういう言葉で指導されがちだが、理解や意味の受け取りが乏しいと単なるわがままを発動して周囲に余計に迷惑をかける事になる。

自分を満足させるのではなく、「ある」ことに意識を向け続けるだけでいい。

なんなら壁に描いた・をずっと見続けるだけで十分だ。

ないものにはなれないが、あるものにはなれるし、ないものを証明するのは難しいが、あるものは証明しやすい。

そのままなものはひとつもないのだから、そのままでいいのではなく、「ある」ものをしっかり見据えれば自然と心は安心しやすくなる。

自分はみつからないのか

自分探しをしている人の多くは考え方から間違っている場合がある。

ないものを探し、感情や感覚が思考と切り話されずに錯覚している。

身体に聴くとよく言うが大体は頭に聴いている。

モヤモヤする、ザワザワする

そういう感覚はある意味身体は反応しているが、本当の意味では見たもの、聴いたものに対する経験と認知に反応している。

では、自分というものはみつからないのか?と言えば、全てを否定することはできない。

ひとつは性質と傾向を把握する事だ。

そのひとつの目安が重心である。

前向きな行動を取りやすい人は重心はつま先になりやすく、慎重な行動を取りやすい人は重心は踵になりやすい。

また、内向的な人は内側に、外向的な人は外側に重心が載りやすい。

その次が目線と身体の動きだ。

背の高いスラッとした人はアンテナが高く、直感力に長けている。

背の低い人は身体は小さいがアグレッシブな行動力を発揮しやすい。

視野が狭い人は集中力が高く、視野が広い人は同時に複数のことを考えられる。

このように身体的特徴から、性質や傾向がイメージできる。

これはどこに身を置いているか?とどこから物事を見ているか?というその人の軸と価値観を表している。

そこでよくあるのが
思考型か、直感型か?という分類だ。

思考型の人はまず、語彙と知識に欲求がある。

直感型の人は、行動と表現に欲求がある。

前者はインプット型、後者はアウトプット型だ。

思考型の人はそのインプットしたものを表現しなくては、熟練されず、直感型の人はインプットするものが少ないと退屈してしまう。

思考型の人は太りやすく、直感型の人は感情が蓄積しやすくなる。

これは性質や傾向というより欲求の向き方である。

身体の特徴はその人の性質や欲求の向き方が表出されているといったところもある。

このようなものは後天的に変えにくい。

だから、欠点を改善するのではなく、伸ばす方に考えた方がいい。

しかし、能力で補完できるなら能力は後づけできるのだからいくらでも付けるべきだ。

こういった身体の感覚は普段はあまり意識しないだろう。

だからこそ、身体を使って作業する必要が出てくる。

作業は身体感覚は強化できるのだ。

作業して疲れないように長く労働するのであれば、身体の使いかたは大事になってくる。

また作業に集中すれば、余計なことは考えなくなる。

そこに達成感や充足感が湧いて来れば、自分らしさなど考える余裕もない。

自分の未熟さはほとんどが能力不足である事が多く、力をつければ克服できるものだ。

能力不足の人は中途半端であったり、苦手なものから逃げてきた感覚に囚われやすい。

作業を完遂したり全うする感覚が経験値として心許ないのだ。

そのくせ考えすぎてしまう傾向があり、意味を持てないと頑張れない。

頭でどうにか正当化しようとするから、現実が伴わない。

これが自分がみつからない理由であり、自分探しに嵌る人の傾向だ。

能力はストレスに対する耐性なので、頭志向の人こそ身体を使うといいし、身体志向の人は頭を使った方がいい。

ただ、考える事は悩むことではないので身体志向の人はそこに注意が必要で、「なぜ」や「どうしたい」を考えると嵌りやすくなる。

できるだけ分析、計画、作業を細分化し作業しては、課題を修正する。

そういう頭の使いかただ。

また能力はあってもコミュニケーションで挫けてしまう人もいる。

コミュニケーションが苦手な人は距離感を図るのが得意ではない。

相手の感情や反応に憶測を生み、対応してしまう。

距離感は肌感覚なので、言葉や視覚でのコミュニケーションを一旦脇に置くといい。

相手を感じる練習からはじめる。

相手の感情や反応を気にしない、ただそこにいる存在とだけ認識する練習。

相手の感情は理解できないものだから、無理に理解しようとせず、ただただ思いやるくらいでいい。

自分にばかり矢印を向けているとこういった感性が鈍くなる。

どうだろう、"自分らしさ"は見つかっただろうか?

毎日の行いの積み重ねでしかない

自分らしいか、らしくないかは結局、毎日の行いの積み重ねでしかない。

上手くいかないのは、上手くいかないやり方をしているし、人間関係で嫌な思いをするのも、自分の関わり方次第だ。

すべてのことに因果があるわけだから、自分が見たいようにこの世界を見てるわけで、事実は何も変わらない。

だから自分を変えるというのではなく、自分の成長に繋げればいい。

出来ないことがダメではない、やり続けられないことがダメなんだ。

結局、やり続けることを何もせずに自分を探してもそんなものはあるわけないのが分かるだろう。

自分を探して迷うくらいなら、毎日の暮らしを改めることから始めてみよう。

ちゃんと暮らすのがどれだけ大変か、それが一番厳しく難しい事を知れば、自分らしく生きていなくても生きる力はつくのではないか?

世の中が生きづらいのではない。

自分がだらしないだけだ。

毎日を整える

これが一番、自分らしく生きるコツじゃないだろうか?









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