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関係継続のための、「努力」?

川村元気の「四月になれば彼女は」をご存じだろうか。
ちょっと前に映画もやっていたような気がする。タイトルが何となく耳になじみがあるんじゃないか。わたしは「百花」という同作者の小説が好きで、もっと読んでみたいと思って手に取った本である。
読んでから少し時間がたってしまったので詳しいレビューはできないが、百花にもあったような、静かな、けれども止まることなく流れて行ってしまうような時間の渦に、抗うような感じ。えもく薄い感想を言えば、そんな感じだった気がする。あとウユニ塩湖に行ってみたくなったし、インドでカーニャクマリの日の出も見たくなった。
そのなかで、どこだったか思い出せないが、「愛することをめんどくさがった」という言葉があったと思う。主人公が婚約者に逃げられて、追って探すことを、心の底からできなかったときに出てきた言葉。探そうと思ってぱらぱらと読み返すと、なんだかずっとそういう自分がこだわれない、追えないことを後悔するというか、反省するようなシーンがあった。最後には、変わるのだけれど。

先日陽をちょっと怒らせた。これまでも何度もあったのだが、私が寝落ちたり、寝落ちたり、遊びに誘ってくれたのをお金がないとか課題があるとかで渋ったり、そんなことが続いたりしたのだ。

確かに、毎日している通話も、今日何時にする?と聞いてくれるのはいつも陽だし、会うのも、手をつなごうとするのも、全部陽からだった。そして私が陽の発表の時になんというかあおったというか、わたしとしてはお戯れ兼励ましのつもりだったんだけれど、とっても嫌な気分にさせてしまった。

陽は少し前から、ちょっと限界を感じる、と言っていたし、夜に電話で「もうこれから一週間は俺から通話しよって言わないから!」と言っていて、なのにその次の日更に私は約束を破って寝てしまったのである……(反省)

その次の日の朝五時にハッと目を覚ますと、2000字のラインとともに悲痛な訴えが残されていた。

気を遣うのに疲れた、と。陽は、会ったり、通話したり、そういうの全部、最近は自分からで、自分のエゴだとしても、それでも関係を続けていくために必要なことであると思ってると書いていた。そして、行動主の陽と、受け身の私になっていて、わたしから関係継続の意思を感じられない、私が陽を好きだと、その態度からは信じられないと書いていた。そして、いつかあなたへの興味を全くなくしてしまうかもしれない、とも書いていた。

私もこれにはしっかりと反省し、同じくらいの誠意と分量を持ってこれには応え(たつもり…)、今はしっかりかつてのようなオシドリカップルに戻れていると思う。私は、誰かとお付き合いすることが、齢二十歳にして初めてのことなので、なんだかいろいろなことがある。嬉しいことも、楽しいことも、もやもやすることも、人間関係が原因で涙することも、この6年くらいなかったので、新鮮だし、悩むことも多い。

これまで、恋愛関係も、一度構築すれば、ほっといても続いて行ってくれるものだと思っていた。お互いが、お互いのペースで、お互いの日常を生きていくような、それでもそこに何か分かち合えるものが存在しているような、そういう自然落下くらい自然な関係。努力とか思いもよらなかった。確かにそれは自然とは名ばかりで、放置され荒廃していく林のようなものなのかもしれない。

もしかしたら私が書いたような、お互いがそれぞれの日常を生きていくような放任の関係もどこかにあるかもしれない。しかしその関係にはきっと、私が今、日常として享受しているこの楽しさとか、充足感みたいなものが欠如していて、やはりどこかで足りなくなって、お互いなにかしら努力が必要になると思う。

日常は、失ってみないとその価値に気が付けない。関係も日常になっていく。愛だって好きだって慣れてしまうのだ。楽しむばっかりで、必要なことをめんどくさがっちゃいけない。今回一度「失うぞ!」と警告された気がする。これまでのことを思い出すと、お別れなんて本当に辛い。だから、手遅れになる前に、小説の主人公の婚約者が黙って出て行ってしまったのと違って、そうやって訴えてくれるのは、陽のいいところだと思う。このことは忘れないで、これからも一緒にいられたらいいな。



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