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東京残香_IV.恵比寿

Santa Maria Novella, Iris

私の9年間の人生で3つ目になるバレエ教室はその街にあった。
春休みや夏休みに入る前、お父さんが家族を集めると、その話は決まっている。
「引越しをすることになった。」
お父さんはホウソウキョクというところで働いている。前に住んでいた、港のある街では社宅の団地に住んでいた。そこに住む他の子のお父さんたちも、皆同じホウソウキョクに勤めていたので、引越しとか、テンキンとか、転校は普通のことだった。日本中どこへ行のくか、どこから来たのか、時にはオーストラリアとか香港とか外国に行ったり、来たり。社宅にはひっきりなしに引越しの車が出たり入ったり、小学校が同じになる新しい友達がやってきたり、去って行ったりした。

前の年の夏に引っ越してきたリカちゃんとはすぐに仲良くなったけれど、この春休み中に私たちは同時にその社宅を離れて、別々のところに引っ越すことになった。リカちゃんのお父さんはテレビでしゃべる人だ。本当には会ったことは無いのだけれど、毎朝りかちゃんそっくりのりかちゃんのお父さんがテレビの中でニュースを話すのでまるで毎日会っているみたいだった。うちのお父さんはテレビには映らない仕事だ。


引っ越しには私も慣れていた。お母さんはあっという間に段ボールの山を作り上げる。それから、春休み中の誰もいない小学校に行って先生とか校長先生とかに挨拶をしたり、手続きというのをしに行く。担任の先生が、さみしいね、と悲しそうな顔をして頭を撫でてくれたけれど、私はどうして、何がさみしいのか分からなくて困った。これから、また新しい学校の新しい先生やクラスメートに会わないといけない。さみしいの逆。知り合いがさらに増えていく。出会うクラスメートが倍になる。


引越しの一大イベントは、ベランダからクレーンで吊るしてトラックで運び出すピアノの引越し。たくさんの作業服を着た男の人が家に来て、ふかふかのお布団でピアノを包んで、そうしてみんなでベランダからピアノを押し出す。危ないから邪魔だから向こうに行ってなさい、と叱られたけれど、どうしても宙ぶらりんになるピアノを見たくてベランダに駆け寄った。

今日飛行機に乗ってようやく着いた新しい家は、恵比寿という街にある。駅からは坂を上って、もっと上って、息が切れると家に着く。私の部屋には窓はある。その窓から見るのは、半分は細かいモザイク模様の家やビルの屋根、半分は薄蒼い空。

明後日から行く小学校も決まった。新しくてぴかぴかした学校だったけれど運動場は前の小学校よりずっと狭いし、林も学級田んぼもない。この学校にはどんな子たちがいるんだろう。


新しい家で、ピアノはベランダからじゃなくてエレベーターに乗せて廊下から家に入ってきた。部屋に据えられて、私は早速蓋を開けて、前のピアノの先生が赤ペンでたくさんマークを書き入れたブルグミュラーのおさらいの最後のところを、勢いよく弾いた。
「ひゃあ」
左手の和音の音の一つが、鍵盤を叩いているのに音がしない。何かを叩いている感触はあるのに、柔らかい布のようなものに当たって何の音も出ない。得られるべき手ごたえのない感触の違和感にぞわっと鳥肌が立った。
「お母さん、このピアノ変よ。ここ、ここのところ、音がしないの。」
「まだ調律してないからよ。引越しした時は、ピアノはまた調律しないといけないの。調律師さん探さないとね。やれやれ。」
崩した段ボールを紐で束ねているお母さんは、やれやれ、のあと、調律師さんを呼ぶのを忘れてしまった。永遠に。
そして、この街に来て、私はピアノを習うのをやめてしまった。教室か先生が見つからなかったからなのか、調律師さんを呼ぶのが面倒だったからか、ほかに理由があったからかは分からない。とにかく、ピアノをしなくてよくなったのは遊ぶ時間が増えるわけで、私はお母さんには調律師さんを呼ぶのをずっと思い出さないでほしいと思った。けれど、引越しにめげずにこれまで各地で習ってきたバレエ教室のほうは、新しい家の近くにすぐに見つかってしまった。

おかっぱの髪はやっぱりここでも私だけ。前のバレエ教室でも、私の外、皆女の子は髪の毛は長くて、それをシニヨンしてにひっつめていた。おかっぱの私は発表会の時だけ、べたべたするクリームで髪の毛を撫でつけられていた。新しく入ったこのバレエ教室でも私のおかっぱは目立つようだ。


背の高い大きな女の子が私のところに来た。同じ学年とは思えない大人びた子。私がどこから来たのか、どこでバレエを習って、どこまで習ったことがあるのか、これはできるか、とかいろいろ聞いてきた。そして
「ふうん、ハコダテから来たんだ。なんで髪の毛、短いの?」と聞いた。
物心ついた時から私はおかっぱで、美容院の椅子に座るとそのままおかっぱが出来上がる。それ以外の髪形を考えたことがなかった。


その大きな子は久美子ちゃんといって、久美子ちゃんの周りには仲の良い4、5人の子がいつも一緒についていた。バレエ教室には教室ごとの約束事やきまりがある。何度かの引越しのせいで、これまでも別の教室に変わったことがあるから、教室の新しい約束事や決まり事が分かるまでは、とっても苦労すると知っている。座ってはいけないところに座ってしまったり、着替えをする部屋の決まりごとが分からなかったりして、怒られたりする。先生はひとつひとつ教えてくれる。そうして、いつの間にかその教室に昔からいたようになって、先生とも他の子たちとも仲良くなって、そうしてまたいつか引越しする。


久美子ちゃんは他の子よりも背が高くてとてもきれい。一度シニヨンにしていない久美子ちゃんに会ったことがあるけれど、とても長くてきれいな黒い髪をしていた。お洋服もお出かけ服だった。ヒールのあるブーツが大人っぽくてとても似合っていた。お母さんとお買い物でもなくて、ふつうに学校から帰っているところだった。他の子は久美子ちゃんととても仲良いか、それか、全然話もしない子たちもいる。前の教室みたいに皆が笑ったり、ふざけたりは、しない感じ。なんだか、皆がちょっと緊張している。


レッスンは男の先生の日と女の先生の日がある。皆が踊れる曲で、私は踊ったことのない曲があって、いつも皆と手足が合わなくて、先生に注意された。休憩中、他の子たちが寄ってたかって私に、こうするのよ、こうよ、と教えに来てくれた。にもかかわらず、また何度か同じところで止められた時、久美子ちゃんが大きなため息をつくのが聞こえた。それを境に、久美子ちゃんの周りにいた子たちは私に教えるのを諦めたみたいだった。

ある日、ななちゃんという細い、白い女の子がレッスンが終わった後、静かに近づいてきて「あの曲のあそこの踊り、わかる?」と聞いてきた。
「ううん、ここまでやった後、タタンっタタタ、のリズムのあと、足がどうなってるのかまだ分からない。」
踊りの細かいところ、よく分からないところを思い出しながら、私は床に胡坐をかいて腕を組んで考え込む姿になった。その私と、その横に立つ細く長い脚のななちゃんが鏡に映る。同じ年齢の女の子としては対極的だ。
「ねえ、立って。一緒に練習しよう。」
「うん。」
ななちゃんと並んで踊っていて、なんだか私はいい気分になった。呼吸するのが気持ちがいい。ななちゃんからなんだかいい香りがする。お花みたいな、お出かけする時のお母さんのような香り。
タタン、タタタっ、タタタタ、タタタタ。
「そうそう、そうよ。二人ともいい感じ。今音楽かけるね。」
先生がスタジオに入ってきた。それから音楽もかけて先生が一緒に踊ってくれたけれど、私は先生の柔らかくきれいな動きに目が釘付けで、自分の動きに集中していなかった。
「さあ、遅くならないうちに着替えて帰りなさいね。」
「はーい。先生さようなら。」


更衣室でななちゃんと一緒に着替えた。ななちゃんの柔らかそうな黄色いセーターと紺色のスカート。真っ直ぐな脚が伸びる。茶色の皮の靴もかわいかった。私はいつもジーンズのジャンパースカートと長袖のトレーナー、そして少し毛玉が出てきた靴下とスニーカー。着替えやすいから、いつもそれを着ている。坂の途中で、お母さんが迎えに来ているというななちゃんと別れた。優しい子だ。かわいいし。

「おかあさん、ななちゃんっていう子がいて、今日バレエ教室でいろいろ教えてくれたの。」
「そう、どんな子?」
「目が黒くて、顔が白くてほっぺが、ここのところ少しピンクなの。ふわふわした感じの子で、やさしいの。いろいろ教えてくれた。それから、久美子ちゃんっていう大きな子がいて、美人で踊りも上手なの。」
その後も、ななちゃんは私が分からないでいることに首をかしげていると、そっと寄ってきて教えてくれたり、休憩中に私が窓の外に広がる夕陽の中に白い月を見つけ、皆にも早く見るように言っても誰も興味を示さなかった時も、ななちゃんだけが、一緒に窓辺に来てきれいだねと言ってくれた。

それからななちゃんのおかげもあって徐々にバレエ教室の約束事だとか、決まり事が分かってきて、先生も私の名前を憶えて、名前で呼んでくれるようになって、またレッスンで踊るのが楽しくなった。けれど、とうとう、私が心配していたことが、この教室にもあることが分かった。


「はい、皆さん、今年も12月には発表会があります。今年はピノキオをやります。」
スタジオ内が大いにざわついた。先生が役を挙げていく。配役はこれから決めるそうだ。私はできるだけステージに居る時間が短い役、一人で踊る時間が短い役、それだけを目指そうとしていた。私は人前に出るのが嫌で嫌で仕方がない。しかし、バレエ教室の先生たちはレッスン生の全員が、何かしらの役で、幾分かの時間はソロで踊らせようと演出に苦労していた。親たちがカメラをしっかりと構え、自分の子供にスポットライトが当たる間に余裕をもってシャッターを取れる程度の時間は少なくともステージ上で踊ることになる。
「ヒロインは久美子ちゃんだね。」
誰かかがそう言って、他の子も数人が口々にそれに賛同した。
ピノキオは男の子だが、女の子が多いこの教室では演出が大幅にアレンジされており、主役ヒロインはピノキオよりも重要で、つまりプリマになる。
まあそうだろうな、久美子ちゃんだろうな。舞台で踊る久美子ちゃんは映える。でも先生はみんなが久美子ちゃんという声に、そうとも、そうでないとも言わず、CDをかけ始めた。
「ハイ皆。それじゃあ、音楽かけますよ。」

それほど長くはない二人一緒の帰り路、ななちゃんは私に発表会で何の役をやりたいか聞いてきた。またいい香りがした。今日はブルーのワンピースがとてもきれいだ。バレエウェアを入れた大きなバッグ以外に、小さな黒いハンドバッグを手に持っている。
「私?出番の少ない役が良いな。」
「へえ、なんで?」
「そういうのがいいの。あまり人から見られるのは好きじゃない。ななちゃんは?」
「うーん、ピノキオやりたいけど、まだ分からない。先生が決めるし。」
「ピノキオできるよ。ななちゃん、あんなにジャンプも上手だったじゃない。」
実際、その日も先生はななちゃんのジャンプを褒めていた。ななちゃん自体は、そのバレエ教室クラスで際立って目立つというわけではなかった。それはいつも騒いでいておしゃべりが好きな他の子に比べて、声があまり大きくはないから。でもよく気を付けてみれば、ななちゃんがある点で、他の子たちとは全然違うことが分かる。


なんとなく、対称的に見える久美子ちゃんの踊りは、誰が見ても上手だ。重力に任せた回転、力強いジャンプ。歌までも上手。皆久美子ちゃんみたいになりたがる。髪を下ろしてブランド服を着ている久美子ちゃんは小5なのに中学生に間違われたりして、街で雑誌に載る写真を撮られたりする。ななちゃんにそういった派手さはない。けれども、なんだか静かな、ななちゃんの姿勢や言葉や、話し方全てに、自分とは全く違うとても素敵な何かがすべてが詰まっている気がした。彼女にはピノキオというよりヒロイン役が似合っている気がした。


ななちゃんは、小さなハンドバッグから薬用リップクリームを取りだと薬指に付けて唇を叩いた。笑った瞬間に乾燥した下唇が真ん中からぱっくり切れて血が出ていた自分とは大違いだ。私もお母さんに言って、リップクリーム買ってもらおう。

この街は休日になると、静かな平日とは打って変わって人が多くなる。デパートに来る人、お店に来る人、いろいろ。皆とてもおしゃれをしている。久美子ちゃんみたいな人がたくさん増える。髪をきれいにして、少しお化粧して、ヒールの足音がする。お母さんとかとお買い物をしたり、ご飯食べたり。けれどななちゃんみたいな子は、ななちゃんしか知らない。

ある日、更衣室がいつも以上に賑やかだった。ドアの外に聞こえるほど嬌声すら上がっている。ドアを開けてカーテンを開いて、どうしたの、と聞く前にその理由は分かった。とてつもない匂いがする。久美子ちゃんが持ってきたオーデコロンをふざけて他の子に吹き付けたのが始まりだ。ソニプラでお母さんに買ってもらったらしい。他の子は匂い付き制汗スプレーをスプレーした。そうして、カーテンの内側は強烈な匂いが立ちこめていた。
「臭い臭い、あははは」
「けほっ、けほっ。」
「OLさん、OLさんみたいよ。」
思わずドアを開け閉め、開け閉め、仰ぐように空気を入れ替えていたのだが、「ドア閉めてよ」と着替えていた上級生の子から怒られた。
「どうしたの?」
「ああ、ななちゃん、久美子ちゃんがね、あのねコロンを付けたら、更衣室にすごい匂いが。」
ななちゃんはそのまま廊下で立ち止まってしまい、更衣室に入ろうとしなかった。
「今、こうやって私がドアで扇いでいたんだどね、匂い、少しは薄まったかな。」
「ごめん、先生に今日はレッスン休むって言っておいて。」
「え、帰っちゃうの、どうしたの?」
鼻と口を押えてななちゃんは、廊下の来た道を帰ってしまう。
「ななちゃん、今日は配役を言われる日だよ。どうしたの、どこか具合悪いの?先生に言っておくね。配役分かったらあとで教えるね。」
去って行くななちゃんの後ろ姿に、最後の方はほぼ叫ぶように、言った。


その日、発表会の配役の発表があった。ななちゃんは、ピノキオじゃなくて、プリマでヒロイン役だった。私は思わずキャーと言って慌てて口を押えた。久美子ちゃんのお友達の集団が怖い顔をして一斉に私を見た。久美子ちゃんは女神様役だった。私はスズメBという、望む通りの配役で、スズメAとCを言い渡された子の浮かない顔を横に、胸をなでおろし満面の笑みを湛えた。
ななちゃんがヒロイン役に決まった嬉しさのあまり、翌週次のレッスンで会うのを待てず、その日のうちにななちゃんに配役を知らせる手紙を書いた。前に雑誌の付録に入っていて、好きな漫画が描かれた宝物の便箋をとうとう使う日が来た。それに値する内容の手紙を、大切なななちゃんに出すわけで、惜しくはない。

次のレッスン、教室を外から見上げると、窓のところでレオタードでなく洋服のままスタジオにいるななちゃんを見た。男の先生と何か話をしている。先生の後で、ななちゃんとおしゃべりしようと、更衣室に急ぎ着替えてスタジオに向かった。しかし、スタジオに入ると、もうななちゃんはいなかった。ななちゃんがいないままレッスンは始まった。そしてピノキオのお芝居の配役に変更があると先生が言った。


ヒロインが久美子ちゃんに変更になった。ななちゃんが発表会を待たずに教室をやめてしまうという。私は目の前が真っ暗になった。踊りどころではなく、次第に口の中からのどまでがカラカラになって息苦しくなり、とうとうしゃがみこんでしまった。先生は私が体調を崩したと思い、今日は休んで帰るように言い渡された。
「今、おうちに電話したら迎えに来て下さるそうだから。着替えて待っていてね。ななちゃんとは仲が良かったから、急にやめちゃうことになってショックなのね。」

家とバレエ教室は車の要らない距離なのだが、私が歩けないほどの体調かと思ったお母さんは車で迎えに来てくれた。額に手を当て、
「熱は、無いみたいねえ。何かまた悪いお菓子でも食べ過ぎたりしてない?」と言った。そして、
「ああ、ななちゃんのおうちからお手紙が届いていたわよ。」
「えええ、早く、早く、見せて、え、手紙、家にあるの?じゃあ、早く車スピード出して!」
私は車のシートを掴んで揺らしながら叫んだ。
「あなた、ちょっと、具合が悪いんじゃないの?」

ななちゃんからの手紙は、硬くて立派な紙で、いろんな色の花がプリントされたきれいな封筒に入っていた。とてもきれいな字。
「配役を教えてくれてありがとう。お手紙うれしかったです。お父さんの仕事の都合で急に教室をやめることになって残念です。仲良くしてくれてどうもありがとう。元気でね。 ななこ」

引越しとか転校とかテンキンとか、そんなことは私は慣れっこ。けれども、いつも去っていくのは私の方で、一方的に去られてしまったのは初めてだった。この前まで当たり前に一緒に居て楽しかった友達が、突然もう会えないなんて、さみしいよ。きっとななちゃんには、これから新しい友達が待っている。またどこかで、ななちゃんもバレエ習うのかな。
思わず便箋に顔を伏せた。あの香りがした。花の香り。

今、私はフィレンツェで美術品の修復を学んでいる。世界中のいろんな国から来たクラスメートたち。今、みんなの中でイタリア語が一番不自由なのは私だ。皆が寄ってたかって、私が授業中分からないイタリア語をイタリア語で通訳してくれる。何か、懐かしくて、思い出せそうで思い出せない、切ないようで、心が震えるような感覚。
ある日、ふと入った教会の古いエルボステリアで、その香りを嗅いだ。ななちゃんの香りだ。
どうしているだろう。ななちゃんは今、何処で、どんなふうに、でも、やっぱり素敵に、暮らしていることだろう。

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