見出し画像

Short story_次元を超えて

Fleurs d'oranger_SERGE LUTENS

*******

香りの印象を、ストーリーに込める試み

一つの香水の香りから想起される物語。物語から想起される香り。貴方はこの物語からどんな香りを感じますか。

実際、調香作業においてもストーリーを浮かべながら制作しています。

*******
航一は、オフィスの内線電話の受話器を置いた。
ハンガーにかけられた白衣に手を伸ばす。
研究者が装置の操作を誤り、実験室の機器が非常停止したという連絡だ。
溜息を吐きながら、地下にある実験室へと階段を2段飛びで降りて向かう。

白衣の裾が翻ると、足下に舞い立つ風。
反対に、階段を上ってきた秘書の篠田かなえは踊り場で彼とすれ違い、挨拶をしようとしたが、急いで降りてゆく彼に声をかけ損なう。
そして、鼻に届いた微かな芳香。今、香ったのは何?…思わず足を止めていた。
180㎝を越える身長の三田村航一は、彫の深い男性的な顔をしている。
年齢はもう中年に差し掛かっているが、容姿には老いを感じさせない精悍さがあった。
だから、そんな彼から、既成イメージが連想させる香りとは、およそ似つかわしくない馨しい香りがした気がしたから。
それは、オレンジフラワーの香り。

航一がIDカードをドアのリーダーにかざすと、実験室の自動ドアを開く。
と同時に、モーターの唸りやポンプが刻むリズムに包みこまれる。
ラボはまるで機械室に見える。
化学実験の実験台はかつてのガラス器具に変わり、ロボットアームと計測機器が埋め尽くす。人間はipad端末から、実験内容を入力し、パラメーターを設定するだけだ。
あとは、ロボットアームが夜間や休日を問わず、人間の代わりに実験を行う。


航一は分かっている。
ここに、どれほど高額な機器を揃え、実験室を占有し研究をしようとも、生命誕生の鍵を明かすことはできないだろう。

部屋の奥のアラームが鳴る分析装置の横で研究員の柴田が、狼狽しながら立ち尽くしている。
「三田村さん、すみません。なんか、エラーが出ちゃって。再起動したら、異常検出のメッセージが見えたんですが、すぐにこうなって。でも、僕何もへんなことはしていないんですよ、ただ、この設定の、ここの、、、」

航一は、もう柴田の声を聞いてはいない。
管理者用のラップトップコンピュータのログを開いて装置に起きたことを調べている。

この実験室は、生命の誕生は自明の化学変化であるという作業仮説の下に研究を進めたいようだ。
40億年前の地球環境を模したアクリル箱の中で、生命分子の全自動合成が試みられている。そうすれば、40億年前と同じように生命誕生が再現可能だとする。
航一は、生命起源を研究するプロパーの研究者とは異なり、実験装置を管理するための技術研究者としてプロジェクトに参画していた。
航一には、この次元では研究が永遠に答えに辿り着かないことが見えた。

それでも、地球外生命の可能性を健気に議論しているポスドクたちを横目に、彼らが望む通りの合成反応を実験する自動化システムを創り上げ、管理する。
それがここでのミッションならば、使命を果たすだけだった。

来月は、この研究所の中期審査と外部評価が重なっているため、所内全体を緊張感が包んでいる。
来年度の契約更新の可否を左右するので研究者たちはデータの取りまとめに皆忙しい。
焦った操作で、装置を誤作動させる柴田のような研究者が増える。

エラーログを読み取り、プログラムを確認している三田村に、手持無沙汰になった柴田が話しかける。
「三田村さん、こういう実験のプロトコルだけでなくて、いっそ研究自体も自動化ってできないんでしょうかね。AIとか、自動学習とか、いろいろあるじゃないですか今は。」
明らかに睡眠が足りていない顔の柴田はマスクの下からそう言う。
「ああ、サラリーマン研究者の代わりにはなるさ。その程度には自動化できる。8割くらいの研究はAIにとって代わられても、誰も気づきもしないかもしれないな。」
「へえ。じゃあ、あとの2割は?」
皮肉にすら気付かない柴田の問いに、航一は苦笑いを返す。

「あれ」
柴田は、ふと顔を上げてマスクをずらし鼻をひくつかせた。
「なんだ。」
「いや、何も。一瞬三田村さんの近くはいい香りがして、ああ、落ち着きます。」
航一は苦笑いをして、自分の座る椅子を柴田から少し離した。

言語化できない感覚が捉えるものごとを、つまり、意識に上がらない物事をモデル化してプログラムに落とし込めるか?

生命や宇宙、量子論が扱う次元は普段人間が感知できる次元にはない。
この世を統べている、異なる階層に存在する複数の次元。
人間の感覚は空間と時間までを言語化してエピソード記憶にし、共有できるが、それ以上の次元は記憶も共有もできない。
ただ、空間と時間以上の次元を感じ取れる者がいて、そして感じ取れない者もいる。
それを、視野の差、とでも言うのか。

我々には感知できない高次元が存在している。

そして、より高次元からしかその下の次元での現象を捉えらえない、つまり生命を理解するために、生命より上の次元で考えなければならない。

この考え方は、大学で学んだ量子科学とチベットの寺院で聞いたことが不思議と航一の中で完全一致していた。
そして、それが真理なのだと航一には思えた。

ところが、社会はその真理を基には流れてはいない。
空間と時間より高い次元を切り捨てて、動いている。
航一は離れたところから、ひとりその社会の流れを眺めていた。

化学合成を自動化するロボット設計とプログラムができるエンジニアはまだ限られている。化学合成とメカニクス、両方を理解できていなければできないからだ。
そして、航一は機械化が実のとこと、機械と人との協働の上になりたっている、と感じていた。

実験者による操作のばらつきや不安定さを失くし、実験プロトコルをユニバーサル化するための化学実験ロボット。
しかし、それを正常に動かすために、人間の熟練感覚が求められるということも、皮肉だ。
自動化技術にはコンピュータを動かすアルゴリズムが必要だ。
誰にでも共通に意識され、言語で文法的に記述が可能な要素モデルで構築されている。
しかし、装置が複雑化するにつれ、各要素を統合する段になって、アルゴリズムを立てた時点では全く予測ができない様々な不整合が起こる。
それに対して、航一は膨大な可能性の中から、起きている問題を速やかに割り出して対処する。それは、一種の熟練職人にも似た作業だ。

その部分を自動化することは不可能で、自動学習で熟練に導くことも難しい。
なぜなら、その航一の腕は理屈では到底説明できない、勘と呼ばれたり、ひらめき、であったりなど、まるで天啓のような示唆によるものだから。
幾ら言葉を駆使して他人に説明しようとも、それを感じられない相手には存在しない技術であるのと同じだ。

「三田村さんは、日本に戻ってこなくても、アメリカでもいいポジションに就けたんじゃないですか。」
「いいポジション?」
「ここよりもずっと、給料がよくて、社会的地位も、安定もあるポジション。」
「それが?」
「こんな時限付きの研究所勤めなんてしなくても、いくらでもちゃんとした働き口はあるんじゃないですか。来月の中間審査のためにこんなに急に実験が増えて、審査に通ってもそれでも来年の予算が減らされない保証はないって、もう何のためにやってるのか分かりませんよ。」
「給料とか、安定とか、俺はあまり大事ではないから。今はここは、俺にとって少なくとも力は発揮できる魅力的な職場だと思うよ。」
「へえ、欲がないんですね。男前なのに独身だし。」
俺が、無欲で清廉だとでもいうのか。
違う。
彼らが欲しがる、給与や地位や安定といったものに、なんら意味を感じないだけだ。
欲しがれば欲しがるほど、彼らはさらに欲するだろう。
手に入れても、永遠に満たされることはないものばかり欲している。
そんなものに、関心がないだけだ。
「はあ~、僕なんか任期があと2年なのに、まだ次行くところが決まってないんですよ。もう民間でもいい。任期制には疲れましたよ。」
求めれば、無間地獄。
それが見えないのは、彼の視野の問題だ。
心の窓の大きさ、感覚が開いているか、閉じているのか。

航一は20代の終わりに民間の製薬会社を辞め、シルクロードを辿ってみたいという軽い気持ちでバックパッカーとなり中部アジアを旅した。
その時、チベット仏教を研究していたドイツの研究チームの、現地での寺院修復の日雇いの力作業を手伝ったことが縁で、ボン教のグルに出会いサンスクリット原典に触れた。
作業をしていたラサの寺院で毎日瞑想を共に行ううちに仲間になった人物の紹介で、チベットを離れると、そのままアメリカ西海岸の製薬研究所で働くことになった。
一時の“凌ぎ“のつもりで勤めていたのだが、当初は常識的な給与だったものが、経営陣が半年ごとに契約内容を書き換え、給料は破格の上昇を見せていた。
航一を逃すまいとする経営陣の努力は当時異常にも感じられたが、今ならその理由もわかる。


他の人間ではうまくいかない自動化機械が、航一の手になるとうまくいく。
航一は論理的には説明の出来ない、自動化ロボットの朧げな異常を感じ取る能力があった。
膨大に存在する装置の不整合の原因の可能性の中から、航一は何かしら違和感として感じとれる要素を誰よりいち早く掴めた。
だから実際の故障や異常が起こる前に、その問題を取り除くことが出来た。

しかし、その会社が大手に買収された際、経営陣が変わると、異常に高かった航一の年俸に監査が入った。航一だけが自動化ロボットのトラブルシュートを解決できる、その理由を、旧経営陣たちは客観的・論理的に説明することが出来なかったため、航一の雇用が見直しの対象となった。

仕方のないことだ。航一自身にも説明はできないことだったのだから。

当面生活に困らない程度の貯蓄ができていたこともあり、帰国することにした。その時には40代半ばになっていた。
たまたま公募が出ていたこの研究所の広告を見て応募し、採用された。この研究所では若い研究者(ポスドク)たちと比べ、航一は一回りは年長になる。

家庭も持たず、ひとりで飄々としている航一は所内でも特殊な存在とみなされていた。その容姿は、研究所には似つかわしくない魅力があったため、なおさら所員の関心を集めていた。

研究員には結婚したばかりで初めて子供を持った若い親が多い。
「意識が高い」と言われることばかりを気にした日々のSNS投稿。
清潔さをアピールするためのシンボルである柔軟剤の香り。
そんなものに包まれている彼らの活発で無邪気な熱意に、水を差さぬよう、航一は技術に特化し、独立して業務をこなしていた。


しかし、海図の無い航海のような研究で、経験のない若者は経験がある航一が向いている方角を知りたがる。
唯一、海の広さを知っている船長を頼るように。
作業中の実験室にも常に誰かが訪ねてきた。
航一は、訪ねてくる彼らに向き合う。

航一を人間としての航一を成長をさせてくれたのは、もちろんアメリカやチベットでの経験もある。しかし、それでもいつも心に浮かぶのは一人の女性だった。

高校2年の春、英語の授業に着任した非常勤講師。
小山田里香。俺より12歳年上だったから、当時は28歳だったのだと思う。
里香が現れてからは、英語の授業中に居眠りをすることはなくなった。

教壇に立つ里香の白いポロシャツと紺のスラックス。
それは他の教員と変わらない服装だったが、いつも彼女の首の周りではネッカチーフやブローチがささやかに色付けていた。
白い肌と強いコントラストのある目鼻や眉。
ショートカットの黒い髪。

航一には、里香を知るずっと前から、その里香の容姿のイメージがあった気がした。
目の前の人が、自分の中の恋愛感情を掻き立てるイメージそのものだと確信した。
どこかで見た、いや、見たこともない夢の中の理想が顕現したのだ。

それからは里香の英語の授業のたびに胸騒ぎを覚えた。
それを何と定義できたのか、未だに明確には分からない。
自分が、何かを探しているのか、何かが欲しいのか。
恋愛感情と、憧れを明確にできるほどには、航一はまだ成熟していなかった。現実の里香、自分の理想との境界を見失う。

これは記憶の中にある過去なのか、それとも夢か?
里香は、学校の教員だ。
不意に心に湧いたエネルギーは莫大で、常に捌け口を探していた。

板書する里香の姿に見とれる。
里香の声を一言の響きも漏らさず、聞く。
その年の新緑の季節に航一の風景の中には、里香がいた。

里香が受け持つ英語の期末試験は、ペーパーテストに加えて、発音やヒアリングを試す英語寸劇がグループ課題として課された。
「5~6人でクループを作ります。そのグループで英語劇をしてください。英語を、実際に会話で使うことを評価する試験です。劇の内容は自由ですが、グループの全員が科白を言うようにしてください。」
里香がそう説明すると、エアコンの無い蒸し暑い教室がざわついた。

寄せ固められた3つの机の上で夏服になったばかりの制服で、頭を寄せ合う。
その下で、汗で腕に貼り付いたルーズリーフが数枚。
そこには劇のコンセプトが書きなぐられている。
これ以上は上がらないところまで、捲り上げた半袖シャツの袖。
航一のいる英語のグループは5名で、メンバーの一人に演劇部の津田洋子がいたため、彼女が無駄に凝ったストーリーの台本を創り上げようとする。
英語であれ何であれ、寸劇などにはあまり乗り気ではない航一と洋子以外の3名は、課題である以上は仕方がないから2人が決めたことは何でも従う、という調子だ。
それで、洋子のつくった台本を航一が英訳することになった。
航一は小学校の高学年から洋楽を聞いていたおかげで、英語の言い回しなどには耳は慣れているが、知っているのはスラングばかりで、前置詞を正しく使う熟語や長文読解には自信が無かった。

自室にこもり、ロッドスチュアートを聞きながら、洋子の日本語を英文にする。来週にはグループでの英語の科白練習を始めたいから英訳は今週中に、とメンバーと洋子から言われた。
英語のセリフを何度も書き直す。
自分の英訳が、想定する場面にふさわしい表現なのかどうかが、全く自身が無かった。
洋子が書いた台本にあるのは、ガソリンスタンドでの客のドライバーと店員たちとのウイットに富んだ会話だった。
その中には、日本語だからこそのオチもおそらくある。だから、単に英訳して意味が通じればいいと言うものではない。

悩み抜いた末、テストである以上は禁じ手なのかもしれないが、英訳については、里香に確認してもらえないか相談してみることを決断した。
評価は劇中での発音やコミュニケーションとしての実用に対して行われると言っていた。
科白の英訳を事前に確認してもらうことは、もしかすると許されるのではないか。

職員室に向かう途中の廊下。
窓に反射して映った、自分の髪形を何度もチェックせずにいられない。
自分が、里香にとって、好印象の生徒の一人でいたい。
ささやかな願いだった。
けれど一方で、英訳もテストの一環だと言われて事前チェックは断られる可能性もある。
その時は、面倒なことを質問したり頼んだりする、空気の読めない生徒と思われるだろうか。
イチかバチか。

相変わらず雑然としたグレー色の職員室の中に足を踏み入れる。
延々と並ぶデスクを縫って目指すのは、里香のデスク。
航一にはそこだけ灯りを点したように明るく見えた。

課題になっている英語劇は、日本語台本を自分が英訳したのだが、グループで練習に入る前に英文を見てもらえないか、日本語でいうオチが自分の英語で伝わるのか確認してほしい、
とずいぶん簡潔に里香に一息で話すと、里香は微笑んで頷いた。

持っていたルーズリーフ3枚が、伸ばされた里香の手に渡った。
「いいわよ。まあ、ずいぶんな大作ね。」
ルーズリーフを捲って眺める里香の瞳に零れそうな黒い艶が揺れていた。
粘度のある真っ黒な液体が揺れるようだった。
それを永遠に見つめていられる、と思った。
「わかったわ。預かって見ておくわ。」
航一の時空は里香の前で止まっていた。
「三田村君?」
「あ、ああ。お願いします。」
その瞬間、春の山の上にでも登った時のような香りがした気がした。
何だろう。何か、花のような。
それは甘さというより、清々しさを湛えた香りだった。

初めて里香と一対一で話したその日、帰宅後も気分は高揚したままだった。
夕食の間、母親の話などいつも聞き流しているだけだが、その日の航一は、珍しく話相手をしていた。相当気分がハイになっていると自覚することになる。
夜、ベッドに入った後も寝付けずに、
里香のデスクで嗅いだ香りを思い出していた。

里香が現れるまでは、平均点を追いかける方だった航一の英語の成績は、今期の模擬試験で突然、県下トップの成績を収めるようになった。
振り返れば当然だ。
一日中、英語だけ勉強していたのだから。
自然のなりゆきで、他の科目の成績は降下していた。

高校生が全力を傾ければ、どんな奇跡も起こせるもの。
課題以外にも英語の参考書に附いている問題や、英語で書かれた小説に片っ端から目を通し、分からない言い回しの部分を拾い集めた。
質問をするために里香を訪ねることができる、それだけのために。

「三田村君は、随分英語の勉強に熱心なのね。でも、これ、ジャン・コクトーの原著はフランス語なのよ。だから、これはそのさらに英訳されたものよ。原著をあたって読む、っていう課題からは、ちょっと外れているわね。」
航一は、顔から火が出る、という経験をそこで人生で初めて味わった。
「私大の英文科でも志望しているの?」
「あ、ああ、はい。」出まかせの返事が出た。
「それじゃあ、今は、理系進学クラスにいるから、なかなか大変ね。」
「あ、ああ。はい。それも、そうですね。」
里香はただ笑っていた。
「この前の、劇のせりふの言い回しなんかは、洋画を沢山字幕で見ていると、だんだんわかってくるわ。ネイティブの発音も学べるし。」
「英語が話せるようになりたいです。外国の人と話をしたい。」
「何を、三田村君は何を、話したいの?英語圏の人と。」
「何を、何をって?」
「知りたいわ。言葉って、人の心を伝えるものよ。心から零れるものが言葉。三田村君はどんな心を伝え合いたいのかしら?」
ただ漠然と、英語が話せるようになりたいと思っていた。
「まずは心、動機があっての言葉よ。」
里香は微笑んだ。


女の雰囲気、というのはこういうものなのか?
何かが起こる度、いちいち慌てたり怒ったり笑ったり、黄色い奇声を上げる女子たちの騒がしさとは違う。
里香の雰囲気はクラスの女子のそれとも、母とも違う。
ただ黙って微笑むだけで周辺の空気を和らげ幸福に包み込む、そういうものだった。
里香は化粧を感じさせない。
女生徒たちの獣臭さや母や保健体育の女性教師のように石油のような脂や粉っぽい化粧の匂いもしなかった。
シャンプーや洗剤の匂いでもない。
ただ、とても清々しい香りを纏っていた。
里香を思い出すときには、まずその香りを想った。

その日、日直日誌を担任に提出しに職員室に向かうと、現代文教師の伊藤が、職員室で里香のデスクに馴れ馴れしく凭れて、話しかけているのを見た。
途端、無性に腹が立った。

そこに居るな。里香の空気が汚される。
里香はお前なんかが話しかけることが許される女性ではない。
そのことが何故分からないのだ。
里香は、お前が思うよりももっと、神聖な。神聖な、、、

その怒りは、やり場が無く、航一の精神は不安定に大きく揺すられ、崩れかける。
それでも、職員室の去り際に、一瞬里香と目が合うと、里香は航一に微笑み返してくれた。
それが航一の世界を一瞬にして変える。
現実にそういう映画のようなファンタジーは起こるのだ。
里香の視線からもたらされた豊かなエネルギーは、
数秒前には、殺意を覚える程に憎んだ伊藤を、強くハグできそうなほど航一を舞い上がらせた。

里香が授業の後、航一を廊下に呼ぶ。
「このまえの科白の英訳添削したものだけど、せっかくだから発音確認しておく?今日は昼休みはちょっと時間がないから、放課後でもいいかしら。少し教室に残っていられる?」

航一が添削を依頼した原稿や提出していた自主課題について、解説してくれると言う。
里香とのマンツーマンの補習がある放課後が待遠しい余りに、体育でのサッカーでは見事な空シュートを放ってしまい、ブーイングを買った。

陽が落ちていこうとする教室の角。
逆光の影の中に里香が座っている。
里香は自分のためだけにそこに居た。
里香が航一の英訳を読み上げる。
ネイティブにちかい英語の発音を聞くことがまだ少なかった航一の耳にも、とても本格的な発音だと分かる。


普段、英語に慣れていない生徒たちの耳に分かりやすくするために、わざとカタカナ英語の発音に近づけた発音で声を張る授業中の里香とは違っていた。
今だけは、小鳥が囀るようなその口調を真似て、航一はカタカナには決して変換出来ない発音を学ぶ。親鳥から歌を習う幼鳥のように。
舌の位置や口の形を鏡で確認させられながら里香の口移しで発音を学ぶ。
Problemという単語の発音の難しさや、カタカナで聞くearthを連呼するのは、聞くに堪えない、ということ。

里香は、授業では語らないことを航一に教えてくれた。
イギリス英語とアメリカ英語の違い。
正直、口、舌がこれほどに疲れるものだとは知らなかった。

里香と航一が向き合った時間は、そのすべてを足し合わせたとしても、決して長い時間ではなかったはずだ。
里香が自分だけのために放課後の時間を作ってくれたのも、片手で数えられるほどの回数に過ぎなかった。
それでも、英語を通して里香から習ったことが、航一自身を築いていく。
映画のセリフ、その映画監督の作品が好きだと言う事。
里香が好きだと言う音楽。
里香から聞いたことが、あの頃の俺の学びの全てだった。

「三田村君は強い夢を持っているのね。一つひとつの課題にこんなに熱心で。英語を使って将来何がしたいの?」
「将来?何がしたいかといえば、エンジニアになりたい。工学部志望だけれど、けれどいつか留学をしたいんです。」
「それはぜひした方がいいわ。若いうちに世界を見ておくのは大事よ。きっと視野が広がるから。」

親が聞くと渋い顔しかしなかった留学したいという自分の夢を、里香は強く肯定してくれた。

「けれど、今は、本当は受験も、陸上部の試合も、不安でしかない。どれだけ全力でやっても、たとえ、テストや成績が上がったって、自分に本当に将来があるのかなんて考えると、唯々息が詰まりそうで苦しくなる。」
思わず、里香に本音をこぼす。
子供だと思われたくない、だから、もっと強がっていたかったのに。
「全力でやったのならば、あとは、祈ること。祈り、その力を侮らないで。祈ることにはとても強い力があるのよ。生命を生かし宇宙を生んだ程の力よ。」
教室は茜色に染まっていた。
「先生は、何を祈ってるの?」
「私は、この世界の仕組み、この世の中を知りたい。」
それを聞いた航一が、よくわからない、というような顔をしたのを見たのだろう。
「ふふふ、漠然とし過ぎているわね。」
里香はそう言って笑った。

月曜の朝礼が終わり、授業の教室を移動中の里香に声をかける。
精一杯気軽に、カジュアルに。
その実、猛烈な緊張と戦いながら里香の横に並ぶ。
「先生、インドカレーは好きですか。」
「え、なに。ええ、好きよ。」
「隣駅の商店街の裏通りに、ナンが美味しいインドカレー屋があるんだ。土曜日の昼補習が終わったら一緒に行きませんか?」
「津田さんたちと行くといいわ。劇の打ち合わせがまだまだ必要でしょう。」
別の日には、
「先生、前に言っていたジムジャームッシュの、あの映画はもう見ました?チケットが当たったんだ。もし、まだなら、一緒に行かない?」
「そうね、でも家はwowwowがあるから配信で見るわ。」

当り障りのないように、上手くあしらわれている。
それはそうだ。
里香からすれば、自分のような、まだまだ制服を着ている男子生徒と呼ばれているうちは、一人前に向き合える男性とは思われないだろう。
そこにいる他の生徒と同じ、子供だ。
親しく英語の補習をしてくれていても、それは教師としての仕事を全うしているだけだ。
俺なんかと、一緒にいるなんて、そんなことを望む気持ちなどあるはずもない。
そして、非常勤とはいえ学外で生徒とふたりだけで一緒にいるのは不穏なのかもしれない。
そのころの航一は、他の生徒よりも背も高く、角の無い少年の顔から、骨格の見える顔へと日々変化していた。
移ろう成長過程の不安定さを残す、大人でもない。子供ともいえない。

夜、ひとりの部屋でベッドに寝転ぶと、真夏の雷雲が突然夕空を覆うように、避けることのできない黒雲の闇に、心が覆われていく。
嵐が吹き荒れる。
あれ程に神聖に思っている里香のことを、貶すような考えが湧きだす。
どうせ、そのうちどこかの男とくっつくんだろう。
いや、今既に付き合っている男はいるのか。
今頃、親し気に話していたあの現代文の教師とデートでもしているかもしれない。
ベッドの縁に頭を打ち付ける。
涙が滲んだ。

里香は、そんな人ではない。
「三田村君」と航一を呼ぶ、里香の声が耳に残っている。
それから、あの香り。

夏季補習も残りあと2日だった。
喧し過ぎる蝉の声を背に、最終日の模試のための補習が続いた。
里香の存在のおかげで、英語だけはどんな問いでも自然と答えは浮かび上がる。
英語は言語。
いつの間にか自然に身について、溢れ出るだけのもの。

一方、数学の微分積分と代数幾何を何とかしなければ、工学部の志望校ランクを落とさなければならないほど成績が悪い。それなのに、問題集はやはり英語ばかり手に取ってしまう。

英語だけは4月からこれまでの自分の成果を、貴方のおかげだ、と言って里香に見せたかった。期末の試験を前にして、航一の頭にあったのは、ただそれだけだった。

夏休み中の最期の里香の授業の日。
英語寸劇の練習もグループのメンバーで繰り返してきたが、その日が発表だ。

授業が始まるなり、里香は言った。
「テストを前に、皆さんに話があります。突然なのですが、私の授業は今日のこの授業で最後です。9月から、イギリスのロンドンの大学に留学することが決まりました。皆さんの2学期からの英語は別の先生が担当されます。」
一瞬の沈黙の後、ざわつく教室。
あからさまなブーイング。
女子の悲鳴。
それらをなだめて、授業を進め始める里香の声。
テキストの音読を当てられた生徒の教科書を読む声。
全ては遥か遠くに聞こえた。
何処か遠く、自分と関係のない世界の出来事が進行する。

課題の英語寸劇のグループ発表。
自分のセリフを早口でまくし立てたその15分間の劇が、一体成功したのか、失敗したのかすら、もう記憶がない。

この夏休みが終わると、里香がいなくなるって。
それは、一体どういうことなのだろう。

里香を失うことへの絶望の一夜が明けて登校した朝、
寝不足の航一は、廊下で里香を見付けて駆け寄った。
そして、心の中で1000回は練習した科白をぶつける。
「先生、9月にイギリスへ発つのは何時ですか。俺、空港まで見送りに行きたいんだけど。」
「ありがとう。でも、その気持ちだけで十分よ、有難う。確かに受け取っておくわ。」
そう言って職員室のなかに入り見えなくなった。
空港への見送りを断られ、その後ろ姿を見つめるしかなかった。
俺ではない、他の誰かが里香を見送りに行くのかもしれない。

これで、終わりなのか。

里香が他の生徒や教師の手前、余計な波風が立たぬよう神経を使って自分に接していることは分かった。
だからこそ、誰の目も無い学校の外で、どうしてもふたりで会いたかった。
街では誰かに会うかもしれない。
何処か。誰もいないどこかで。

祈りを侮るな、と、里香はそう言った。
俺は、玄界灘に面した長く続く砂浜の浜辺への最寄りの駅、時間だけを書いたノートの端を千切って、廊下をすれ違いざまに、黙って里香の手の中に無理やりに渡した。

クレモンティーヌのl’ete、里香が好きだと言った音楽をダウンロードしている端末。曲を聞く。

8月の最後の日。
時の流れに容赦はない。
在来線の小さな駅を降り、県道に沿った暗い松林に向かう。
松の木が僅かに途切れるトンネルを抜けると波の音がする。

もっと能天気で明るい夏のビーチを期待して、浜辺を待ち合わせ場所にしたが、天候が必ずしも晴れる保証はないことに考えが及んでいなかった。
台風が近づいていたその日。
湿った空気はなんとなく肌寒く、紺色の海面は不透明で、白波が立っていた。
たしかに、人気のない場所だが、誰もいない砂浜に轟く波の音はこの空模様の下ではもはや恐ろしくすらある。
天を厚い雲が覆う風景、これ以上はないと言うほど禍々しい別れの舞台。

しかし、その舞台には、待ち合わせに伝えた時間を過ぎても里香は現れない。

駄目か。

祈りを信じなさい、と、里香は言った。
けれどもこの世界全てから裏切られたようなこの胸の痛みを、どうしたらいいのか。
絶望の中で、流木の株に腰を落とした。
世界を割り砕く様な波の音。
いっそのこと、その波に呑まれて、粉々に砕かれたかった。

その時、松林の奥からペールブルーのワンピース姿が見える。
瞬時に、世界に色彩が生まれる。
信じ、祈る。
里香はその結果を初めて俺に教えてくれた。

遅れてきた里香を前にして、何を言っていいのか分からない。
あれほど多くの言葉を考えてきたのに、頭と口が繋がらない。
「一学期だけだったけど、君といられて楽しかったよ、三田村君。」
長い沈黙の後、里香が先に口を開いた。
「ねえ、隣の駅まで、歩こうか。」
浜辺に沿った松林の中、駅一つ分、砂の上を二人で歩いた。
驚くべきことに俺は一言も、考えてきた言葉を一言も里香に話し伝えることが出来なかった。

心から溢れ続けたのは想いだけで、言葉が出ない。
ただ、里香から微かに香る香りを覚えておきたくて、風の流れの中で微かな香りを探し続けた。


そして、いつの間にか、もう隣駅の駅舎がそこに見えていた。
「じゃあ、ここで。元気でね。」
「先生。」
「三田村君は、君はこれからどんな大人になっていくのだろうね。」
「俺、何も、言えなかったけれど。」
「言葉があっても、足りないから。私も全部は言えない。だから、その心で十分よ。」
「先生には、俺はただの生徒の中の一人、っていうことはわかってる。でも俺にとっては、先生は。」
里香はただ頷いた。
「じゃあ、ね。私が先に電車に乗るから。君は次の電車に乗ってね。」
里香が手を伸ばした時、袖から確かに香った。見たことはないはずの白い花の香り。
その手を握った日、航一はそれまで生きてきたのとは違う世界に放り出された。

その日、航一は夜をひとつ失った。
眠れないベッドを抜け出し、スニーカーを履いて玄関を出る。
湿度が高い夜闇の中の住宅街をあても無く歩き続けた。
終電を終えた駅の影。
公園に灯る街灯。
休息は訪れない。

思考は停止しているようで、里香を想っているようで、そして浮かび上がる泡のような甘い想像は、現れては無慈悲に割れて弾ける。
幾つも知っている失恋ソングが歌うような悲しみを、何ひとつ感じることすらできなかった 
喪失だけが航一を覆い尽くしていた。

6時間以上は歩き続けていた。
疲労と脱水で気が遠くなった頃、鈴虫が一斉に啼きだす。
漆黒の闇を乗り越えたのだ。
家、道路、街路樹、信号機、すべてが青く染まっている。
明るさを増している東の空
灼熱の一日が始まる前の刹那、露を帯びた冷やかな空気を吸い込む
足下一面に咲く月見草の中を裾を濡らしながら進む

半日前にたしかに存在した、静かで、ささやかで、里香との二人の時間。
それは、恋愛に至ることすら許されずに引き千切られてしまった淡い世界。

雲の割れ目から細く陽の光が射しこんだその時、あの香りを感じた。
里香から薫った香りと同じだ。
そしてそれは間違いなくこの辺りの植物から薫っているものだ。
航一は辺りを見回して、その香りの元を探った。
強く香ったのは、そのどこかの家の生垣。
柑橘の実を付けた木の枝に白い花が付いている。

花弁に鼻を近づけて香りを吸い込む。

これだけでよかったのだ。満たされていく。

俺は、里香の心に触れただけで、すべて満たされていたのに。一体、何を求めようとしていたのだろう。


航一は、淡々と装置の再起動手順を勧める。連結された装置がひとつ、ひとつ順次起動されていく。コミュニケーションが正常に行われた時の高いビープ音が続く。

欲を捨てること、祈りとはそういうものだと知ったのはずっと成長してからだった。
チベットの寺院で、グルに教えてもらった事の全てが、里香との時間で自分が学んだことと結びつく。


里香が言った「祈り」が、今捉えている力のことと同じであるかどうかは分からない。
けれど、今、自分が実験装置の全体から感じられる、時として違和感や、あるいはうまくいっている時の調和というものは、「祈り」というものと同じ次元にあるように思える。

生命の発生は、非自明なダイナミクスの中での出来事だ。
我々が知っている、ごく限られた範囲内で成立する化学の理屈では捉えられない領域の話だ。
生命の反応を実験室レベルの既知化学反応を以てして模すなど、柄杓でクジラを掴まえようとしているようなものだ。
次元が違う。
そんなことを想起させるとき、航一の中には里香のことが浮かんだ。
里香は、あの時の自分より、はるか高い次元を見ていたのだと、今なら分かる。航一が一喜一憂した目先のことより、もっと遠くを見ようとしていた里香なら、この世の仕組み、生命の正体を捉えられただろうか。


「三田村さーん。ちょっと、すみません。」
ドアが開き、実験室の入り口で篠田かなえが三田村を呼ぶ。
実験室内では機器の騒音でその声は朧気だ。
こちらの声も向こうには届くまい。
航一は立ち上がり、入り口のかなえのところへ向かう。

メールで済む話、オフィスで済む急ぎではない用事も、秘書の篠田かなえは所内で航一を探し回って直接見つけ対面で話をする。
その努力は他の研究員に対しては見られないので、航一に対して特別にやっているということは誰の目にも明らかだった。

「実験中にすみません。予算支出の書類にサインが必要なので、お願いできますか」
サインをする航一に、かなえが言った。
「やっぱり。三田村さんですね、この香り。ベルギーに住んでいた時は、男性もフローラルの香水をつけていることはあったけど、日本人の男性では初めてよ。」
「そう、ですか。」

「それから、もう一つ分かった。三田村さんには、ここでの仕事とは別の世界があるって。」
かなえはそう言って、少し寂しそうな笑顔を見せた。
「三田村さんは、私なんかには分らない遠い世界の住人なのだって、その香りで分かった。」

日々は続く。
小さな縁が生命を揺らす。あの時、里香は見える世界を変えてくれた。
今感じられると分かる世界の上に、もっと高次元の世界がある。
生命や宇宙を統べる、繋がりがある。
だから、高い次元では里香とも繋がっているのだと
そう信じさせてくれる。

今日も夜が明ける。
ベッドから起き上がり、朝のシャワーのあと、比較的伸びるのが早い髭を剃る。
少しずつ白くなりつつある髪の分け目をかき上げる。
それから、香水瓶に手を伸ばす。
一瞬強く香った後、微かに纏う空気になる。
あの頃が創った自分を、今日も一日生かしていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?