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Short story_precious moment

香り:L-menthol   香料原料_ミントキャンディ

実験小説*****香りからイメージへ、イメージから生まれる香り***

この物からあなたはどのような香りを感じますか?



「ねえ、絹(きぬ)はこれが主題歌になっていたドラマ、覚えてる?」
勇樹はそう言って、放送室の棚の隅に積まれたCDの山の中から、プラスチックが劣化し割れたCDケースを取り出し、素手で埃を拭って私に差し出した。

私たちの周りには、電源を入れられることはもうない放送機材が積み上げられていた。グラフィックイコライザーやオープンリールレコーダーを覆う埃避けの黒い布。
これらが新品で私たち放送委員の手元に届いた日、初めて触る高価な機材に皆が興奮し、手が震えたのを覚えている。
もうずっと昔の話。

CDは、かつてのトレンディドラマの主題歌として大ヒットした曲が入ったアルバムだった。今でもイントロを聞けば無意識に歌詞が口を吐く。

「僕さ、自分も大人にさえなったら、あんなドラマみたいな、仕事や恋に心が踊らされて、キラキラした毎日を迎えるんだって、ずっと思っていた。」
それは都会で働き、自由に暮らす若者たちの姿を描いたドラマだった。
そんなTVドラマがあの頃は幾つもあった。
「そうか。」
「うん、信じてた。だから、そのためだけに勉強したよ。勉強して東京の大学に行きさえすれば、この街を出られるし、あのTVドラマの中のキラキラの毎日がくるんだって、信じてたよ。」
「それなら、勇樹はぜんぶ、叶えたじゃない。」
「そうかな。そうなのかな。」
「東京の大学に行って、働いて、恋もして、そして結婚もしたんじゃない。」
私は軽く笑ってそう言ったのに、勇樹の顔からは表情が消えた。

私はそれを見ないふりをして続けた。
「テレビドラマはさ、フィクションだから。キラキラさせて作ってあるものだから。そもそも、ドラマに出てたのは俳優とかだし。普通の人じゃないし。」
「そりゃそうだね。」
やっと少し口元を緩めて、勇樹が言った。

分っている。
私たちがこの放送室で過ごしたあの頃と今とでは、世界がすっかり違っていることを。
あの頃夢みていた大人の世界は、私たちが大人になるのを待っていてはくれなかった。

かつて、生徒数40人を超えるクラスが学年に7つも8つもあった住宅街の中に在るマンモス中学校は、私たちが卒業後、知らぬ間にゆっくりと生徒数を減らし、ついには隣町の中学に吸収合併される。この校舎は、間もなく取り壊される。
かつて若い核家族世帯が競って手に入れた分譲住宅が並ぶ新興住宅地は、そのまま今はリタイア後の高齢者世帯ばかりが占める地域へと移り変わっていた。
4半世紀ぶりに訪ねてきたこの街に、懐かしさは微塵も感じられない。
私がこの街のかつての風景を忘れてしまったからなのか。
それとも、この街のほうがあまりに変容してしまったからなのか、


駅からの道、昔からあった、緑に覆われた邸宅の並ぶ風景は消えてなくなり、小さなプレハブ住宅が幾つも立っている。
友達と夜、こっそり集まって花火をした原っぱは、裏山ごと切り崩され、巨大な病院が建っている。
あの頃は無かったバイパス道や大型ショッピングモール。
夏の陽射しを遮ってくれた緑は減り、同じ形をした小さな住宅のモザイク。
そして、何故なのだろう。
外を歩いている人を、まったく見ない。

地元の親友から、母校の校舎の取り壊しを伝え聞いた勇樹は、
かつて仲の良かった同級生の仲間たちに
「学校に最後のさようならをしに行かないか」
とメールを送っていた。

休みに実家に帰る機会を利用して、かつての母校を訪ねたいという。
私はその宛先の中の一人。

>>よく私のアドレス分かったね。
>探し出すのは大変だったよ。いろんな人に聞いたよ。おかげで懐かしい人たちとも話ができたけど。

あの頃、中学校では男子と女子が一緒にいるだけでも冷やかしを受けるような、そんな時代だった。
そんな環境の中で、勇樹は何故かいつも女子たちと一緒にいた。
女子も勇樹がいてくれることを好んだ。
今思えば、彼にはフェミニンな部分が多かったから、女子も気兼ねなくおしゃべりの中に彼を入れていた。けれど、彼にはちゃんと付き合っている女の子もいた。
そして、ふつうに女子に対して誰にでもやさしかった。
私は彼とは生徒会の放送委員会で一緒になったのをきっかけに仲良くなった。
常に一緒に行動したがる女子のグループにいるのが面倒で、私はいつもひとりでいたけれど、勇樹と校内放送当番のために二人で放送室にいるのは面倒ではなかった。
あの頃、私は勇樹のことをどう思っていたのだろう。
便利な男子?思い出せないけれど、少しは好きだったのかもしれない。
あの頃、私、一体誰のことが好きだったんだっけ。
好きな人とか、そもそもいたんだっけ。

無限に広く感じていた中学校の校庭。
午後の太陽の下、ハレーションに目を細め、遠くボールを追い走る小さな影を、部活動が始まる時間には毎日あの窓から眺めていた。
白いサッカーユニフォームを着たシルエット、そのひとの顔を、今はもう思い出せない。

中学校に義務だからと通う毎日を不自由だと思いながら、自分の太い足首や、似合わない不細工な制服に身を包んで、一生懸命に編んだ髪を束ねて、そしてこの小さな放送室の中で、顧問の先生が仕舞いに叱らなくてはならないようになるまで、皆で息ができない程笑って転げていた。

放送委員だった他の子たちも今日は誘ってみたけれど、私以外は誰も都合がつかなかった、と勇樹は言った。
そして、取り壊される中学校に最後の別れを告げるなどという感傷的な誘いには、私こそ来るはずはないだろう、と思っていたとも。

私は笑って言った。
「そうよね。自分でもよくわからないけれど、来ちゃった。」
「絹だけでも、来てくれてよかったよ。僕一人で学校に最後の別れをするのは、ちょっと淋し過ぎる。」
春休みの校舎の周りをふたりでうろついていたところ、警備員か、用務員さんなのか、グレーの作業服を着た老齢の男性が、卒業生の我々が校舎の中に入ることを、短時間ならば、と許してくれた。
この春休みが終われば、来年度には解体工事が始まるという。
生徒が誰もいない学校は、少し怖い。
人気のある職員室の前の廊下を過ぎると、放送室がある。
入り口のドアに鍵が掛かっていなかった放送室に、私と勇樹は勝手に入ってしまった。

25年ぶりに会った勇樹はすっかりおじさん、というか、いい意味でお父さんの姿になっていた。二人の子供の父親で、東京では子供の野球クラブの面倒を見ているという。
私は結婚して、そして離婚して、小さな個人の会社をやっている。

少し黴臭い放送室。かつて、校内放送のマイクに向かっていた防音室を見回す。
ここの天井ってこんなに低かったっけ。
「あの頃は早く大人になりたかった。」
勇樹が言った。
「そうだね。私もできないことは全部、自分が子供だからできないんだと思っていた。

夜は一人で自由に出歩けない。自由に歩いたって、何かしたり、どこかに行くためのお金は無い。親や先生の言うことに逆らって行動する力がない。誰かの言うことを聞いて従わないといけない。けれどね、私、そんな時代が自分にあったことを、今はとても幸せなことだったと思う。当時は不満ばっかり言ってたけれどね。」
「絹は、なんか変わらないね。」
「そう?変わったよ。相応にほら、白髪もあるし、もう童顔とはいってもおばさんの顔には違いないよ。ああ、でもあの頃ほどには太ってないかもね。」
「そうじゃなくて、喋り方とか、雰囲気はあの頃と一緒だね。」

敢えては言わなかったけれど、勇樹は、もう昔の勇樹じゃない。
でも、それは悪い事ではないでしょう?
「この学校に別れを告げるつもりで来たんだけれどさ、なんか結局、余計に未練が膨らんだ気がする。」
「あー、男の人はこれだから。」
「そうさ、悪いかよ。どうせ男は未練がましいよ。」
昔のように、からかい合って、ふたりで笑った。

勇樹、もうね、私たちの「あの頃」は、そのままの姿でここには存在しない。
取り壊されるこの校舎にお別れをしにきたわけじゃないね。
あなたはここに今日、なにをしに来たの?何を探しているの?
あの頃の欠片。あの頃の、何か。ここに残したままになっていたもの。
ねえ、それは、見つかりそう?

「さあ、そろそろもう空港に向かおうかな。明日仕事じゃなかったらご飯でも一緒に食べに行けたのにごめんね。」
「いいよ、いいよ。平日なのにわざわざ来てくれてありがとう。ここで絹に会えて本当に良かった。空港なら車で来てるから送るよ。CDプレーヤーもあるからさ、このCD聞こうよ。」
きっと、放送室の棚に積まれていたCDは20年以上前に公費で買っていたものだと思うけれど、校舎の取り壊しとともに廃棄される運命だろう。1枚だけ、こっそり貰っていっても咎はないだろう。

高速道路に入り、空港までの道で聞いた、メロディの美しい曲。
大衆に支持されていた音楽は、かつてこんなにも厚みがあり上質だった。
消費され過ぎ去っていくだけの曲ではなく、人生の一刻を留め、20年以上も前の青かった記憶を、今もそのままに蘇らせてくれる。

「憧れ」
「え、何?」
ハンドルを握る勇樹が視線を一瞬こちらに向けた。
「私たち、あの頃、何もなくて、何の力もなかったけれど、子供だったから。けれど、憧れ、があった。」
「この曲にも、憧れた。」
「私たち、憧れだけ抱いて、あの学校の中で過ごしていた。」
道は急に広くなり、飛行場の管制塔が見えてきた。離発着する大きな機体。

あのころのままのエネルギーを持った憧れを抱くことはもうできない。その事実への絶望と、優しい諦め。
でも、かつて憧れを共有しつづけた仲間がここにいる。
「勇樹、あの時の憧れは、まだ憧れのまま、私たちの中にあるよ。無くなったりしないよ。」
「絹に会って、やっと今そう思える。ずっと、胸につかえてた。あの頃からずっと、まだ終わってない大事なことがある気がした。だから中学校が壊されるって聞いた時、急に苦しくなった。大事なものが、それが何なのかもわからなかったけど、消えてなくなるなんて耐えられなくて。どうしたらいいのかも分からなかった。」
「大丈夫。胸の中には永遠にある。時々、思い出して。失くしたりしないで。はい、これあげるからさ。」
そうって、バッグからのど飴をひとつ、包み紙を向いてハンドルを握る勇樹に渡す。
勇樹は無造作に飴を口に放り込んだ。
「これ、絹の味だ。」
「なに?」
「これ、絹は昔からこの飴を食べてなかった?」
放送委員は発声練習などで喉がいがらっぽくなると、みんなのど飴を舐めていた。確かに昔から、私はこの定番ロングセラーのメントールののど飴だ。今でもいつもバッグの中に持っている。
「憧れだけで生きていけた自分のことを、この香りで、はっきりと思い出せるよ。僕は、あの頃の自分に会いたくて、今日はこんなところにまで来たのかもしれない。」

貴方の憧れたあの頃の未来は、それは私の憧れでもあった。無限に広がる素敵な大人の世界だった。
今も、制服とさして変わらないつまらない服を着て、社会の言うことに従うしかなくて、背負っているものの重さは、重くなるばかりでゴールも見えない。
もう、目の前に現れることのない、かつて私たちの周りにみた光景。
けれども、あの頃の憧れだけは永遠に残る。
ねえ、素敵な大人になっていこうよ。

まだこれから。私たち。

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