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Short story_芳醇

*実験*****香りからイメージへ、イメージから現れる香り*****

perfume「2019秋天」_ Composed by Tokyo Sanjin

夏も終わりの夕方。目黒通りに傾く日差しは強い。

路線バスはのんびりとバス停に止まった。
そのサイドミラーの端に映ったのは、駆けつけてバスに乗り込んだ女性とその手の先に握られた小さな子供の手。
セーラーカラーの制服に身を包んだ園児の小さな手がバスの手すりを握りしめるのを待って、バスは揺れながら発車した。
暫くすると、人気のアパレルブランドが販売する特徴的な甘い香りがバスの中に広がる。カールした髪の毛先がスプリングの様に揺れるその子供の母から発せられる媚と欲が霧のようにその周りを包むようだ。
「汗かいちゃったね。」
そう子供に声をかけると、女性はおもむろにバッグからリボンモチーフのピンクのキャップが付いた小瓶を取り出し、子供の首の後ろにスプレーした。
バスの中は瞬く間にパウダリーの香りが充満し、猛烈な匂いの刺激に思わず息を止める。
息を止めているのが続かなくなった頃、丁度次のバス停に停車したバス。
慌てて降車口に向かい、脱出さながらに飛び降りた。私のうしろから数人が同じように続いて降車した。

ファッションフレグランスのイメージは、ここ日本ではこうやってできあがる。
たとえ個人消費者単位でフレグランスのマーケットが拡大していこうとも、公共文化としてのフレグランスがこの国に定着するのは難しいだろう。
そのイメージは常に、「過剰」や「無配慮」と鬩ぎ合う。

料理人の私には香りを身に纏う習慣はない。
食材に触れた自分の手の痕跡を、如何に消せるか苦心する。
それは料理に自分の体温であったり、匂いを残さない努力。
それでも、19歳から26歳まで料理修行のために暮らしていたパリでは、フレグランスのイメージは気品とセンスの象徴だった。
人々の香りの纏い方にはハッとさせられた。
ローズとベチバーの薫るカシミアを纏った中年の女性には、映画や雑誌ではなく、初めて生身の人間に色気というものを感じ背筋が震えた。
幼いころから香りに触れ、纏うことを親からんでいる彼ら。
日本のファッションフレグランス市場とは香りの意味すら違っていることを知る。
乾燥するヨーロッパと異なる日本の気候風土は日本人の香りに対する感覚に大きく影響している。高温多湿の環境は、名香と呼ばれる香水がその複雑なハーモニーを奏でるのには向いていない。
この国ではシトラスのシングルノートのような無難な香りが好まれるのも仕方がない。

一方で、日本人のフレーバーに対する感度と関心の高さは、その美食の国と言われるフランスの人々よりも、というより世界の中でも突出していることを確信した。
日本では甘、鹹、苦、酸味に加え、昆布のイノシン酸に代表される旨味が基本味覚スペクトルに加わるとともに、「風味」の重要性が極めて高い。
食品科学工業技術も高い。そしてその先にあるのは、加工食品への香料の添加だった。
日本のインスタント食品の質が高いのは、「風味」を制御する術に極端に長けているからだ。

添加香料を加えられた飲食品は、添加物の健康影響云々よりも、その過剰な香りに掻き立てられ高められた食欲には見合わない、低い満足度に嫌気がさして手が出なくなった。
旬の生物や天然スパイスからの豊かな香りの食べ物は香料添加された加工食品とはレトロネーザルアロマが違う。口に含み、咀嚼し、鼻から抜ける香りを感じていれば本物と偽物の差に気が付くことは難しくない。

目黒通りから谷のような坂を下る。Foumi【fūmi】と彫られた小さな木の標札。ここが私の店だ。
八雲に近い住宅街の中の小さな一軒家店舗だ。
鍵を開け、ランプの明かりを灯す。

料理と酒を提供する僅か6席。
人に依ってはこの店をバーとも呼び、または小料理屋だと言う人もいる。
私には、酔うほどまで飲酒をする習慣は無い。
それでも、風味を愉しみ、同じスピリッツでも自分の状態の変化によって感じ方が違うのを確かめるのはとても楽しいし、無心に集中することができる。

樽ウイスキーやハーブや果実で香りを付けたスピリッツ、リキュールはさながら飲む香りだ。
ビールや日本酒、ワインと違い、食事とは完全に切り離して、純粋に香りや風味を楽しむためのもの。香りづけに用いられるハーブやスパイスによっては薬であることもある。
肌の上で揮発する香りの代わりに、口から鼻に抜ける香りを捉えてみる。

この店のうす暗く静謐な空間で、感覚を澄まし、風味を味わうためだけに鼻利きが集まる。
生山椒の塩漬け一粒を乗せた合鴨と洋ナシのロースト 
刻んで和えた蕗入り白味噌のクリーム
独活とシイタケのサラダ
島胡椒ソースの焼いたサバ
ハマボウフウとブドウのゼリー
海老シンジョウと青柚子の椀
唐墨のおむすび
壁のボードの品書きに書き加えていく。

静かにドアがきしむ音がして、ショートカットの女性が入店する。会釈のみで好きな席へ、と勧める。
「いらっしゃいませ。」
「何か、秋のカクテルをお願いしたいのですが、どんなものがありますか。」
「ピオーネの皮で香りをつけたベリーのカクテルがあります。果汁はジュレにして盛り付けてあります。」
「じゃあそれをお願いします。それと、旬のお料理を2皿、何かお願いします。」
彼女はメニューを一度も開くことなく、静かに尋ね、私の薦める飲み物と料理を頼んだ。
牡蠣のフリッターと炭焼きの秋刀魚
苦みを含む潮を感じる風味が強い。

夜はキャンドルの灯りだけになる店内では、香りに集中できる。
女性の耳元のピアスが灯りに揺れる。

「いらっしゃいませ。」
暫くして店のドアを開けたのは男性だった。先にいた女性に小さく手を挙げて、カウンターの隣に腰かけた。
「僕は、モヒートとお水をください。」
「かしこまりました。」

女と男はカウンター越しの私には届かない程の声で、しかし、途切れることなく何かを真剣に話している。
女性の表情は仕事の緊張を解かない。
男の口も、淡々と言葉を発しているかのようで、感情は読めない。
不意に男から私に声がかかった。
「何か、小さなお皿のお料理があればお願いします。僕は食べ物の好き嫌いは無いので、お任せします。」
「それでは、今日は豊後鶏が入っていますのでチキングリルにして少し辛いネギのソースはいかがでしょう。」
「美味しそうだね。それ、お願いします。」
「私は、アップルスパイスのカクテルをお願いします。」

キッチンでディルとローズマリーを千切りグリルに添える。食欲を誘う香りが立つ。
酒と料理、シンプルな味に豊かな香りを纏わせて、呼吸を深めていく。
テーブルに並ぶグラスや皿に伸びる男と女の腕が交差し触れ合う。
僅かばかりのアルコールの魔法。気分を上昇されるハーブやスパイスの香り。
アップルスパイスは、林檎を赤ワインでスパイスとともに煮たコンポートの、シロップを煮詰めたものをスロージンで割った秋のカクテル。
少しずつ緊張がほぐれていく二人を視界の端に見ながら、ディルとペッパーが香り立つピクルスを切る。
ふたりはこの店を出れば、それぞれの家に帰り、夜が明ければきっと明日もこの東京の街で仕事をするだろう。
恋人ではない距離。
友達ではない立場同士の矜持。
それでも、互いに大切に思っている、そう思うことができる精神性が通い合うことがそのテーブルからの香りに読み取れる。
香りに対する反応だとか、箸を手にする小さな仕草一つ一つが、饒舌に人の内面を語る。
何に向けて感覚を開いているのか、或いは閉じているのか。
そんなことが見て取れる。

香りの役目を知り、人の感覚に合わせてその場で調合していく。私は料理人だ。
カウンターでフライパンや、七輪に炭を継いでいる私が、何をしているのかなんて、誰も知りはしない。
香りの力を味方に付ければ、人の美しい部分を引き出すことができる。人の本来の個性である感覚を開くことができる。
今晩も私の料理を召し上がった人には、いい夢を見てもらいたいと祈るようにグラスと温かい一皿を出す。

この秋も、テーブルごとの物語が薫りだす。


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