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東京残香 VIII 新木場

FUEGUIA1833: Malabrigo     composed by Julian Bedel

水面は見えないが、そのビルや倉庫群の向こうには太平洋へと続く湾が広がる。
そこは、もはや人が近づくことを許さない、物流運輸のための海。水路にならない場所はとうに埋め立てられた。
淡いグレーの空の下、只々だだっ広く、水平線の丸さを見て、この惑星がさして広くはないことを知る。
耐えられる程度に衛生が保たれているならば、コンクリートを境にお互い干渉し合いっこなしの海の都合と人の暮らし。
自然とは程遠いこの土地に、馬鹿馬鹿しいほど深く生い茂った新木場公園の緑。
4階の窓辺からそんな光景を眺めていた。ヘドロの匂いも交えつつ微かに匂う汐風は確実にこのビルの鉄筋を酸化させ赤茶色の涙跡を濃くする。
最上階、壁を取り払ったワンフロアを2年前に買い取った。
ここは居住地区ではないから、階下は出版社や通販会社のオフィス兼倉庫。休みの日、この街で生活しているのは私しかいないだろう。
都内に居るとて、ここでの暮らしはまるで地方の僻地のそれと変わりはしない。買い物ができる最寄りのスーパーまで車で15分はかかる。いっそ25分で銀座まで出る方がいい。ここは私だけの街のような気がしている。いや、厳密には人間はといえば私だけの、街。
昨年、夏の陽射しで熱せられた鉄筋コンクリート最上階のこの部屋冗談ではなくオーブンと化した。キッチンに置いていた野菜や卵が実際にあまりの暑さに煮えてしまった。

それをきっかけに、剥き出しのコンクリートだった屋上の緑化を試みた。
今や屋上庭園に並ぶ鉢は下のコンクリートが見えない程に増加している。
北限を無視したプルメリアやモンステラ、トラノオもしっかりと鉢に根付いている。
丈の伸びたケイトウは秋口に奇跡のような光景を見せてくれる。残念ながら曼殊沙華にはこの環境は合わなかったみたいだけど。
買ってきた植物、貰った植物、そして摘んできたもの。無計画に植物が増えたこの屋上庭園では猫じゃらしすら観賞用として重宝している。イチジク、琵琶、ブラックベリーには鳥たちも集まる。渡鳥だろうか。今朝は見たことのない色をした小さな鳥をみつけた。

3面から光が注ぐ40畳を越えるこの部屋で、私がひとりやっていることといえば。
部屋の中に小さな個室ブースがある。一坪のラボ。壁に掛けられた東京都の化粧品取扱業の免状。香料原料となる天然物やその他諸々が世界中から送られてくる。
様々な姿かたちで届くそれらを、最終的に数マイクロLの液体に変える。必要があればその香気成分を分析する。受託化学会社のようでもある。実際に香料産業からの依頼がないわけではない。ただしそれは信頼のおける人つてに紹介された個別案件に限られる。
私は香料市場の人間ではない。

今扱っているのは、カンボジアの寺院の扉だった木材。防腐のためか独特の樹脂が塗られている。そこに線香の脂だろうか焚きものの匂いもする。
寺院は取り壊された。半ジャングルの中に在ったその寺院は復旧できないほどに老朽化なのか土台から傾き、とその土地の道路開発が重なった。その寺を象徴していたものは何だろう。人々の祈り。それはいとも簡単に打ち捨てられてしまったのか。祈られてきた時間。その空間に遺った想い。そういったものを象徴するのは、たとえばこの木材片から漂う匂いなのだろう。消えてしまう寺院の記憶を僅かな液体、その香りとして遺す。そういった依頼だった。

木片を粉末粉砕後、8時間の水蒸気蒸留によって得られた油脂分は極めて少ない。香りを嗅いでも、木材片から漂う香とはやや違うようだ。次に、抽出機に残された残渣を有機溶媒で抽出する。これには2日かかった。
やや色のある油脂分が得られた。これは元の木材片の香りにほぼ近い。
こちらの油脂を極僅か、針先に付くかどうか程の量を取って機器分析にかける。
誰にも邪魔されないこの部屋での小さなラボブース内の作業が気に入っていた。
一段落し白衣を脱いでブースを出る。分析が終わるまでの時間、コーヒーを淹れて飲む。
テーブルに置かれた携帯端末に着信履歴がのこされている。知らない番号。ウェブで番号検索をしてみたが、発信元は明確にならない。何か連絡を受けるような心当たりもない。
用があるのならまたかかってくるだろうと放置していた。と、次に目をやった時にも、また同じ番号で新たな着信履歴がいつの間にか表示されていた。
タイミングが悪い。
機会の合わないものを無理に調整して繋ぐ縁ではない。私は応答できるときにしか応答できないのだから。私は再びその着信を放置した。
私の時間の流れに介入するのは誰であっても簡単ではない。

翌日、約束の時間を違えず来客を迎えた。
産業道路に面するこのビルのこの場所を知る人間は多くはない。初めて訪ねる人にはこちらから最寄り駅に迎えに出る。この部屋を知っていて自力で辿り着く人間は、限られる。
今日、納品受け取りに来た依頼者は、山岸充、男性、歯科医。
勤めていた香料会社を退職し、何故なのか歯科医師の免許を取得したが開院はしていない。時々、海外ボランティアとして歯科医のいない集落での巡回診療をしているらしい。それだけの事実でも彼の一面を感じるのには十分だが、香りへの執着は彼が抱え込んでいるものの奥の深さや複雑さを物語っていた。
「ご依頼の香り、時間がかかりましたがようやくできあがりました。」
ガラス瓶に入れた材木片の一部と、別の小瓶に僅かに入っている琥珀色の液体をテーブルに並べた。
物静かで神経質な印象の男の目に、本能から出る欲の光を見た。
「ぜひ、今、嗅がせてもらえないでしょうか。」
「いいですよ。ただ、見ての通り量が少ないので開封するたびに液量が減ることはご了承ください。」
慎重にガラスアンプルの首を折り、スクリューキャップの保存瓶へと移し替えた。空になったアンプルのほうを手渡すと、彼はそれを鼻に近づけた。一瞬の驚きの表情、そして目を閉じ長く俯きながら香りを嗅いでいた。随分経ち、赤い目をして顔を上げ、言った。
「あの時のままだ。」
木を燻したような香りに、元の木材、紫檀の匂いが混じっている。
「時間をかけてできるだけもとの木材片から漂う香りを変化させないように抽出しました。」
「あの時。」
抽出された香りに彼が何を想起したのか。私はそれを知る必要もなければ、興味もない。ただ、幸か不幸か、自分が調整した香りを通じて、他人の抱くイメージが意図せず私の方にも漏れ出して、共有される場合がある。それは、この仕事のリスクのひとつでもある。

手足が長く細い、それでいてヒップのふくらみから背骨への曲線が豊かな弧を描く。少女か、女性というか。肌は浅く黒いがなめらかで何より艶やかで真っ直ぐな黒髪が細い首に沿って垂れている。その女性は樹木の根が覆いつくそうとしている寺の敷石の前に立っている。悲しそうな目が向けられている。その視線は強い。彼女の後ろに聳える木で造られた寺の扉の彫刻模様を、私は知っている。数日かけて私がこのラボで刻んだ木材片に刻まれていたものだ。

「山岸さん、如何でしょうか。ご納得いただけましたらこれで納品させて頂きます。」
「ああ、いつも素晴らしいよ。こんなことができるのは貴方だけだ。ああ、そうだ。前回の依頼の時の、あの母の庭に咲くユズの花の薫りも、本当に良かった。」
彼が依頼に来たのはこれが2度目だ。過去、私が抽出したユズの花の香りを彼が嗅いだ際には、彼の母親の若い頃の美しい姿が想起された。彼の中で止まったままになっている時間。
「現実には会えなくなってしまった人が、まるで香りの中にいるようだ。」

他人のイメージに同調を続けても、良いことは何もない。
「昔、歯科医の仕事でカンボジアの村に滞在していた時、治療にきた少女がいた。ひどい不整合があって、歯を抜いて治療したんです。回数こそかかりましたが治療自体はうまくいって、よく話もするようになり、私にも懐いてくれた。私が帰国するのを家族包みで引き止めようとしてくれました。また歯科巡回で次の年も必ずその村に来ると約束をして、引き上げてきた。けれど国際医療NGOが計画したプログラムの都合で、僕は何年もその村を訪ねることがなかった。」
私は彼の空になったマグカップに、ポットからコーヒーを注いだ。
「ようやく去年、同じ村に行ってみると。」
そう言って山岸は声を詰まらせた。
「数年前に内戦に巻き込まれて、村の人は皆、村を捨ててどこかに引き払ったと現地案内人が言うんだ。たくさんの女性と子供が犠牲になったとも。」
かつての居住区は倒壊しているか、焼かれて炭と化していた。唯一、かつての村の面影を残して遺されたのは倒壊寸前の寺院。外れかけた木彫の扉。
その香りが彼にとってのイメージへの鍵になった

「お気をつけて」
山岸を玄関に見送る。
他人に話される言葉は、抱かれたイメージとは一致しない。私は彼から流れてきたイメージの中に彼の強い性欲だけを見たのだから。
一仕事を終えたので、ひとり屋上に出て緑の中で深呼吸をした。
首都高を流れていく大型トラックが走る音。遠くの煙突から立ち上る白い煙。
音をさせないようにしている携帯端末がポケットの中で震えた。
「はい、有限会社アークです。」
これまでに2度無視してきた番号からの着信だ。
「もしもし、そちらでは、香りを抽出していただけると伺いまして、連絡差し上げました。」
「取引先が限定されていますので、一般の営業という形ではやっておりません。ただ、個人の方のご依頼の場合はまずお話を伺ってお引き受けできる内容かどうかを判断させて頂いています。」
「ぜひお願いしたいことがあります。」
「この端末の番号をご存知ということは、どこかでお聞きになっているかもしれませんが、実施の場合は高額な費用が掛かりますが。」
「存じ上げています。」
「さようですか。」


銀座にある個室のあるティ―ルームが指定され、そこで打ち合わせをするアポイントとなった。男は名乗らなかった。会う場所を誤らなければ、問題はないと。名乗らない人物に会うなどということは考えてみれば危険な事だが、そのティ―ルームのプライバシーやセキュリティの高さは有名だった。男よりもその場所を信頼した。

車を地下駐車場に入れ、地上に出ると歩行者天国の銀座だ。足早に大声で外国語を話す集団を追い越し、ビルのエレベーターを押した。店員に案内され、石の敷かれた路地のような通路を進む。障子が開けられた。
「お待ちしていました。」
照明を落としたティ―ルーム。明るい外を背にした男の顔は逆光でよく見えない。
「成沢と申します。お越し頂けて良かった。お会いするのにもハードルが高いと聞いています。」
肩書が何も書かれていない名刺。成沢啓。本名であるという確証はない。
「まだ、ご依頼をお受けできるかどうかはお話を伺ってからになります。」
「ああ、それはもちろんです。」
「敷居を高くしているわけではありません。独りでやっていることなので、お引き受けできる内容や仕事量のキャパシティが限られているだけです。」
「会社を大きくしようとは思われないのですか。」
私は首を振った。
「経営には興味がありません。」
男は笑って、自分が持参した茶を自ら淹れたいと申し出た。

個室の戸が開き、湯の沸いた釜が据えられ、茶盤や茶器が運ばれてきた。中国茶芸の手法に則った本式の点茶だ。客人の前で茶を点てるのに慣れている。無駄な緊張が全くない。茶葉に湯が注がれ、一瞬立ち上る湯気が流れてきた。
「分かりますか。」
成沢は私が香りを感じ取ったことを見逃さなかった。
「とても豊かな、香りがします。」
花か果物かとも思える力のある香りが立ち上る。
「その通りです。プーアール生茶です。14年前のものが手に入りました。貴方にお出ししたいと思いました。」
「貴重な茶葉をどうもありがとうございます。」
丁寧に入れられた琥珀色の茶は繊細な問香杯に注がれた。透けるような白磁の茶杯に口を付ける。面している世界の彩度が変わる。
「大変美味しいです。」
「よかった。」
男も茶を啜った。景徳鎮窯の茶器に触れる指が、無意識に繊細な陶器の肌を撫でている。本物の良い茶に触れた時の魔術。時間の流れ方が変わっていく。茶酔いだ。

「あなたにしか頼めない依頼があります。」
私が香りを通じて、同じ香りを嗅いだ他人が抱いたイメージを読んでしまうのと同じように、この男は茶を通じて、私を読んでいるのが分かる。努めて意識を自分に取り戻す。
「成沢さん、ご依頼を希望されている内容をお伺いできますか。」

店を出て、銀座から新木場まで車を走らせる頃には夕日が沈もうとしていた。3時間もの時間が打ち合わせに費やされた。引き受けるかどうか、返事を待ってもらう事にした。家に着き、屋上の庭園に上がった。蚊除けと灯り取りのためにキャンドルを付けて回る。倉庫群や工場、高速道路の照明が小さく輝く。生活のための灯りではない。これはこの街で見ることができない天の星の代わり。太陽が沈んだ後、この土地の道標となり車と人と船を導く。遠くで汽笛が聞こえた気がする。
成沢が求めているのは特定の香りや、香料原料からの香気抽出ではなかった。
彼が望んだのは、彼の中に在るイメージ、ある記憶を抽出し香りにしてほしいというもの。彼にとっての、それは過去の現実。
しかし、今それは彼の中にのみ想起されるイメージとしてしか再現されない。
ある夏の出来事。彼が少年から青年に代わる頃、その出来事は彼を傷つけたであろう、しかし、今彼の中で輝くひとつの炎となり彼の人生を照らしている。過去の情景や、人々との会話。彼の見た光景。

私はエスパーなどではない。

だから彼の経た過去を彼の説明の中の言葉以上に知ることはできない。
彼の中にある記憶を香りにするためには、自分の中にイメージを再構築する必要がある。
それは彼の中のイメージと一致することはまずありえない。
それでも、自分の中にある経験やイメージを総動員して成沢が経験した夏の再構築を試みる。

子供時代の最後、それは自分の中の過去、傷付きながら通り抜けていくトンネルの様な時間。成沢が経た痛み、イメージを想起するため、自分の痛みに向き合わなければならない。

新木場は、過去と繋がる一切を断ち切ることができる私にとってのサンクチュアリのような場所。故郷となり得ることがない場所。現在だけのために存在する街。
ここに居ながら自分の過去と向かい合うことになろうとは。
彼が望んだ香り。彼の中の情景を、失われた情景を、嗅覚を通じ実感するための香り。
それは私自身に同じ作用をもたらすことになるだろう。その香りが出来上がった時、彼の望む調香が完成するだろう。

首都高の上に赤い月が昇る。沸き上がるイメージ。
私は急いでキャンドルを消し、屋上庭園を駆け降り、ラボのノートブックにメモを取り始めた。


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