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東京残香_III.芝・愛宕

伽羅木 _香木 加熱 山田松香木店

「和尚さん、あの人たちは分かっていない。何も分かっちゃいないんですよ。薄っぺらな土地のみてくれだけのために、ここの下の岩に穴をあけて掘るなんて。」
和尚は何も言わずに4畳半の部屋に戻っていこうとする。僕はその背中を追った。和尚は座布団に座り、僕にも座るように言った。

「いいか、低い者のことを低いと知ることは、より高いところに居る者にしかできないんじゃ。」
「は?」
和尚は何時もの如く、短く明快に言った。
「低いところにいる人間には自分の犯している間違いは見えないんだよ。その間違いが見えるっていうことは、それだけお前が高いところにいるっていうことだ。それだけ富めるっていうことだ。」
「富める、ですって?さっぱり、このとおり私は今でも家も仕事もなく、とても貧しいのですが。」
「ここの豊かさのことを言っているんだ!ここの!」
と和尚は自分の頭を指した。
「富める者、戦わず、だ。」
「はあ。」
「あんたは、彼らの間違いが分かっているということは、もう富める人間になっているということだ。だから、あいつらと戦う必要はないのよ。ただ憐みの表情を浮かべてそいつらを眺めておればいいのよ。ああ、あいつらは間違っとるのを、それが分からんのはかわいそうな事だ、とな。腹を立てるんじゃない。」

翌日、和尚は何日も続けて都庁から訪ねてくる男達が運んできた何枚もの書類に紙からはみ出しそうなほどの墨蹟で幾つもサインをした。これでとうとう、1か月以内にこの寺はこの地から立ち退くことが決まってしまった。寺が無くなってしまう。この崖地にトンネルを通す計画があるという。この寺だけの土地の問題というよりも、大戦から焼け残りそのまま続いてきたこの街全体に変貌の波が押し寄せている。

モジュールが小さくできた昭和初期の建物が多く残るこの街は、東京都にとっては汚く古く、防災上の支障になるそうだ。例えば、関東大震災後、堅牢耐火を目指した職人の手による石造りのアパートメントよりも、ガラス張りの高層ビルのほうが安全だそうだ。建造物としての堅牢性は人の身体への無事よりも優先される。


長きにわたり、この土地の割け目から見え隠れする向こうの世の闇と面し、その闇を抑えてきたこの寺を失うことが、夜も煌々と灯りを点し空に光を放ちたがる東京都にとって何を意味するのか僕には想像もできなかった。この寺が無くなり、和尚がいなくなり、この地を支える大岩に穴が穿たれ、トンネルとなる。闇は吹き出しこの地に溢れるだろう。人の情けはこの闇の深みに零れ落ちていくだろう。

3年前、生活保護を受けるために向かった役所で、住所記入欄に書ける住所が無かった。住宅を借りられる金がない。故に、住所がない。保証金を払って部屋が借りられるほどの金があれば、生活保護も要らぬであろうに。役所に行くのに無理をして、長く歩きすぎた。行く宛てなく、空腹のあまり眩暈がする。近くには公園もない。仕舞には雨が降ってきた。田舎道ではない。人口密集地、ビルが建ち並ぶオフィス街だ。しかし、会社が入るビルの入り口のドアはどれも固く閉ざされていて、救いを求める術もない。

ビルの並びに不釣り合いな石垣が現れた。朱塗りの三門が開かれていて、手入れされた植栽のある庭と石のベンチが見える。寺か。名前が書かれた杉板は古く何という名前の寺なのか読み取れない。大きな樹の下に据えられた石のベンチは雨が掛からず乾いている。一時、休ませてもらおうと門をくぐった。一体食べ物を食べなくなって何日になるだろうか覚えていない。覚えられないほどの日数、物を食べなくても人間は公園の水道の蛇口から出る水だけで生きられるようだ。そのレコードをついに記録し遺す時が来た。限界だ。とうとうお迎えがきたのだろうか。電波が切れたテレビ画面のように視界が砂嵐となる。人間は水だけでは寿命を全うできない。

気が付くと、頭の禿げあがった作務衣の御仁が僕の両肩を揺すっている。
「す、すみません。少し休ませてもらってまして。すみません。」
喋っているのだが声になっていない。
次に気が付いたときには、畳の部屋に寝かされていた。久しぶりの布団の感触だ。
「粥を作ったから食え。いくら腹が減っていても、その躰で今すぐビフテキや天麩羅というわけにはいかんのじゃ。」
袈裟を着ている。さっきの男、坊主だ。寺だ。助かった。坊主、神様仏様観音様だ。ありがたい。
「すみません。」
出された粥は、粥と聞いたのだが、一体粥なのか、米とぎ汁なのか分からない濁ったとろみのある液体だった。見た目を云々する状態ではないので口に入れ一気に流し込む。世の中にこんなになに旨いものがあるのかと思えた。塩の味がした。
「若いのが、どこから来た。家出か。」
「いえ。」
温かいものが腹に通り、全身に何かが通いだした。停電後の街に徐々に灯りが燈るように手足に重力の感覚が戻ってくる。
「勤めていた、か、会社が半年前に潰れて、貯金が尽きて、アパートを追い出されました。」
「勤め人なのかお前。幾つだ。」
「いえ、今はだから失職中です。32です。」
「なに!てっきり16,7かと思った。」
確かに外見は若く見られがちだったが、16,7はないだろう。
「それで、田舎にでも帰らんのか。」
「親とはもう。」
「もうなんだ。」
「長いこと会っていなくて。」
「罰当たりめが。この親不孝者。」
小学校から帰宅すると、母の靴も服も、母の持ちものが全て無くなっていた。男と蒸発したと知ったのは中学を卒業するときだった。酒を飲んで暴力を振るう父から逃げ、そのまま電車に乗った。鼻血を抑えていたTシャツの袖が真っ赤だった。

そうだ、僕は罰当たりだ。親不孝なのだろう。
「建設会社で日雇いの仕事を探したんですが、どこも住所がないと駄目だって言われて、住むところを失くすと働けるところも無くなりました。仕方なく、区役所に生活保護の申請に行ったんです。そうしたら、そこでも住所がないと駄目だって言われて。」
「そうだろう。当たり前だ。何処に住んどるかわからん者に、税金で生活させられるか。わしは見ての通り、ほれっ、これから出かけにゃならん。その粥を食い終わったら、勝手に帰れ。」

勝手に何処へ還ったらよいのだろう。
和尚は威勢よく袈裟を叩くと埃煙が舞い、まるで煙幕に包まれる妖術師のようだ。埃の向こう袈裟を翻して、どこか行ってしまった。唖然と布団の上で見送ったが、突然、近くで掘削工事でも始まったかのような爆音が轟き、飛び上がってしまった。慌てて縁側から覗くと、爆音を立てて急発進した車が敷地を出て行った。改造車なのか?まさか、袈裟を着て、改造車で?和尚は何処へ行った。

粥を食べて帰れと言われたが、僕に帰るところはない。
塩味の米のとぎ汁、いや粥、を食べてしまうと、妙に元気が回復している。いや、もちろん数日ぶりに胃を満たした温かい食べ物だったわけだが、視界が開け、妙に頭がクリアになった気がする。その自分としてはスマートに感じられた頭が考えて出した結論は、まず、この寺に置いてもらえないか和尚と交渉することだった。もちろんこの寺で家事雑用でも何でもする気だ。食べさせてもらえるなら給料はひとまず、次の職が見つかるまでは望まない。そう伝えてみようと決め、坊さんの帰りを待っていた。

ところで、坊さんは一人でこの寺に住んでいるのだろうか。歩き回ってみると、線香の匂いが染み付いたお堂に着いた。暗闇の壁一面に大仏様が据えてある、そしてその周りを小さな仏像、小さくても形は大仏様、が無数に囲んでいる。薄目を開けている大仏様と目が合ってしまった気がして思わず手を合わせてしまった。お堂の中央には囲炉裏のようなものがある。何かを燃やした跡が残る。電灯のスイッチが見つからず、暗闇を歩いているのだが何故か闇でも目が効いている。
一通り探検を終え、寺の中に他に誰もいないことを確認した。すると、遠くから爆音が聞こえる。

第一京浜を走る暴走族を想ったのだが、まさか、まさか。その爆音は次第に大きくなり、最終的にこの寺の敷地に入って止まった。僕は耳を塞いでその音が止まるのを待っていた。
「和尚さん。」
「なんだ、お前はまだおったのか。」
「何ですかこの音は。改造車に乗ってるんですか。ご近所迷惑なのでは。」
「マフラーが落ちたんじゃ。」
「はい?」
「何日か前に首都高を走っていて、排気マフラーが落ちた。」
よく警察に捕まらなかったですね、と言うと、2度道で止められたと言う。誇らしげに、トランクから脱落した排気マフラーを取り出し見せた。
昔、車好きの友人の改造を手伝っていたことがある。外れただけのマフラーなら取り付けることはできる。
「僕、直します。それ、直します。」
「おおそうか。助かるわ。」
「だから、すみません。ここに置いてください。次の仕事が見つかるまででいいんです。どうかここに置いてください。お願いします。何でもします。」
正座して床に頭を擦りつけた。土下座は子供の頃、父親の前で何度も何度も毎日毎日していた。そして頭や腹に蹴りが入るのが常だった。それはいつも、こんな風に暗い部屋の中だった。今、坊さんは蹴りも殴りもしない。その代わり、困った、困った、と唸りながら、奥へと入っていった。出て行け、とは言わなかったのだ。


翌朝、僕は朝6時に目を覚まし、顔を洗って、早速、車を見に行った。敷地の倉庫から錆びた工具箱を取り出し開けてみると、レンチやスパナを見つけることができた。坊さんはいつの間にか起きていたようで、作業する僕のところにやってきて、作業を見ていた。1時間もすればマフラーは元通り取り付けられ、エンジンをかけてみると昨日聞いた怖ろしい爆音はもうしなくなっていた。坊さんは歓び、朝飯だと言った。

お膳には昨日僕が食べたものと同じ、水のようなお粥がひと椀。
「和尚さん、これは、一体」
「粥じゃ。早、食べて、墓の手入れに行くぞ。」
「まさか、いつもこれですか。」
坊さんが朝からクロワッサンとミルクティーでもなし、仏門の人間が粗食なのは当然なのだろうが、しかし、粥一杯で腹が、身体がもつのだろうか。
「この膳が不満なら、誰も引き止めはせん。帰るんじゃな。」
「すみません。」
茶碗一杯の粥を流し込むと腹はいい具合に落ち着いた。墓掃除、草むしり、寺の掃除、読経する坊さんの後ろで埃にまみれていた。汗をかき、身体はエネルギーに満ちてくるようだ。数日間栄養失調状態だった躰とは思えない。昼食も摂らずに夕食を迎えた。漬物と菜っ葉と、粥だった。
「この粥、えらく薄いようですけれど、意外と腹持ちがいいですね。」
「この罰当たりめが。」
「失礼しました。」
「この粥はただのコメの粥ではないぞ。」

翌日はその粥の作り方を厨房で学ぶことになるのだが、改めて驚くことになった。まず、井戸から水瓶に水を汲む。地下水だ。手押しポンプを何度も力強く押しつづけると、そのうちパイプから水が噴き出す。そして、止まらないのだ。いつ水が止まるのか、その都度変わる。手動ポンプの圧力任せだ。汲んだ水は活性炭が沈んでいる備前の大きな水瓶で数日間寝かしたものを使う。調理の火はガスではなく、薪で火を起こす。ガスは通じていないそうだ。ここは東京都の港区のはず。ライフラインというものからこの寺は外れているようだ。ガスボンベくらい手に入るのだろうが、和尚は使わない。電気こそ通っているようだか、家電製品はほとんど見当たらない。竈の前で苦戦していた。僕はマッチを何本も擦った。新聞紙にすら火が付かない。咽るほど煙が立つが、火が着かない。そこから薪を燃やすのは絶望的に思えた。数日前からの雨で何もかもが湿気ているのだ。
「湯は沸けたか。何じゃ、まだ火が着いておらんじゃないか。」
傘も差さずに外で作業をしていて戻ってきた坊さんは眉毛に細かい雨粒を載せていた。その濡れた手でマッチを擦り、何故か一発で薪に着火させた。何故だ。そして、鉄鍋で湯を沸かす。
「こんなにマッチを無駄にしおって。馬鹿もん。」

出来上がりの水のような粥を想えば、沸き立った湯に僅かな米でも入れるのかと想像していたが、それも違っていた。坊さんは、外から採ってきた葉っぱ、いや落ち葉、枯葉を笊から一掴み煮えたぎる湯に放り込んだ。
「なんですか、それは」
「茶じゃ。」
茶と言われても、僕は緑色の乾燥した細かい葉しか見たことがなかった。こんな茶色い枯葉のようなものが茶なのか。
「まさか、昨日、一昨日、食べた粥って、こうやって」
「そうだ。」
得体の知れない葉。何か悪い植物、そうハイになるような、ドラッグハーブのような、植物の煎じ汁が入っていたのか。初めて食べた時から躰に感じる漲る異常なエネルギーはこのせいか。

「和尚さん」
「早く塩を入れろ、早く早く。」
噴きこぼれそうな鍋に塩が入った。
「和尚」
「次は米。早く。」
「和尚さん、これは脱法ハーブか何かですか。」
「なんじゃ?」

和尚は僕に、その枯葉の一枚を渡して、齧ってみるように言った。恐る恐る齧ると、それはまさに茶だった。しかも強い緑茶香りがする。和尚は自分で土地に生える茶の木から葉を摘み、自分の手で製茶していた。初めて製茶というものを知った。笊に葉を一枚ずつ並べ、日陰に半日。熱した鉄板で一瞬炒る。手間を要する。

茶の木は墓の裏の崖になっている場所の岩から生えており、不気味に枝を伸ばしている。写真などで見たことがある芸術にも似た手入れされた静岡の茶畑の様子とは対極的だ。栽培しているとは思えないワイルドさだ。いや、栽培というより本当に昔から生えていただけなのかもしれない。

「何でお前が水を汲むと床がこんなに水浸しになるんじゃ。」
「すいません。」
桶で水瓶が満杯になるまで水を汲むのは一苦労だ。水の出どころは流量調整不能の手押しポンプで汲む地下水だ。そこから数メートル離れた土間の水瓶まで何度も水を桶で運ぶ。

「一体いつになったらマッチ一本で焚きつけができるようになるのだ。」
今日も土間で怒号が飛ぶ。和尚が望むようなことができるというのは、容易ではない、と思う。

しかし、僕の手際の悪さにたまりかねた和尚が僕の代わりに手を掛けると、水も火もまるで和尚の思うように動く。桶に汲まれた水は一滴も零れることなく水瓶を満たす。水のほうが水瓶を目指して流れを作り流れ込むようだ。火も、湿気に関係なく、薪を焚きつけ、そして、薪が燃え終わる頃に調理も終わる。一体、和尚のやりようと自分の何が違っているのか真剣に考えるようになった。

数日間の和尚の留守中、任された鉢植えの水遣りは、言われたとおりにして、風にも陽にも当てたはずなのに、青々していた苔が白っぽくなって枯れた。それ自体は自分の植木の手入れの未熟さを悔いていたのだったが、分からないのはその後和尚が水をやった途端に、蘇るように緑の苔が植木の土を覆いだしたことだ。この世に、もし仙人か魔法使いか何かそんなものが本当にいるとするなら、和尚のような人物に違いない。

僕は寺の事務的な仕事を引き受けていた。法事の依頼を受け付けつけるのは大事な仕事だ。和尚は葬儀会社と提携していないので檀家またはどこでこの寺を知るのか、個人からの依頼になる。寄付が多くないこの寺の収入は法事などの読経で成り立っているのだが、それが不明朗会計この上ない。そもそも和尚の金銭感覚の無さは、金銭への関心の無さからきている。

ある時など、洗おうとした僧衣の下着の袖からは原形を留めない紙屑になった1万円札の一部が出てきた。残りの塊を慌てて広げて伸ばそうとしたが、その哀れな紙幣は悍ましいことに鼻糞を包んでいた。鼻をかんだらしい。罰当たり和尚だ。せめて千円札で。葬儀や法事での読経の値段は依頼者との交渉で決まる。和尚の言う価格には根拠も前例も何も出てこない。僕はそれを、思いつき価格、と呼んでいた。

その日、依頼者は50代くらいの女性で母親の3回忌で読経を依頼したいとのこと。和尚はこれまで僕が聞いた中で一番大きな金額を口にした。女性は法事の読経としては法外なその額に了承して法事の期日を決めていった。僕の目から見て、派手でも地味でもない姿の女性だったのだが、和尚が何故読経に高額な請求をしたのか、気まぐれにしては、あんまりで、女性には気の毒な気がしていた。
「今度はまた、随分と大きく出ましたね。」
「ああ、届いたら全部ここに寄付するように手続きしてくれ。」
渡された紙には孤児院・乳児院とあった。
「全額ですか。」
「全額だ。」
「わかりました。」


時々、和尚は幾らか数万円程度ずつ、慈善団体などに寄付することがあった。貯蓄はなく、収入が増えて支出を大きく上回ると繰越し分は蓄えずにどこかにやってしまっていた。それを和尚は「流す」とよく言っていた。しかし、今回はまとまった額を全額一度に寄付すると言う。孤児院・乳児院というのも初めてだ。和尚に代わって銀行で手続きし、振込領収書を渡す時に、一体どうして女性に高額を請求し、全額寄付なのか聞いてみた。
「わからんのか。」
「はい、何がでしょうか?」
「だからお前は青いんだ、3流なんだ。」
3流でもいいが、一体なんの3流なのかを教えほしいところだ。

「坊主の仕事というのはなあ、死んだ人間に経を聴かせることだけじゃないぞ。生きてる人間の業を少しでも今世で解消させておいてやるのも大事な仕事だ。」
「業?」
「そうだ。その人の業を見抜けないと勤まらんぞ。人には、この世の間に片付けなくてはならない業があるんじゃ。その助けをせんで、どうする。」

いつの間にか、月日が経ち、季節は巡り、3年目が経っていた。住み込みながら、幾つか建設会社で勤めたが、いずれも短期契約の仕事ばかりで、終わるとまた寺の手伝いをして過ごした。マッチ一本で薪を焚きつけ、土間を濡らさずに水も汲めるようになった。しかし、到底和尚の足下に及びもしない。一見の客人の今世の業を見抜き、解消させるなんてことは、和尚以外ができるようになる必要のないことだし、それは少なくとも僕自身には生活の役にも立たない。

「目に見えるものしかわからんのか、お前には。」
これは「罰当たりめが」と並び、和尚が僕に発した怒号だ。目に見えるもの以外のものはあまり見たくない。特に夜のお堂では。

時々、深夜1時半を過ぎた頃、お堂が赤く染まる。屋内で天井を煤だらけにするほどの火が起こっている。お堂の仏像の前。初めて見た時は足が震え、119番を掛けようとしたが、電話はお堂の向こう、社務所にしかない。見てみると、和尚が火の前に居る。

赤く照らされたその姿は、多くの消防士やポンプ車よりも頼もしかった。初めて見た時に、田舎家の囲炉裏と見たものは、護摩焚の炉だと教えられた。真っ赤な炎と熱風の傍で、和尚は経を読みながら日中延々書き続けていた奉書を火の中に投げ込む。赤い火の中から紫と青の炎が一筋立ち上がり蛇のようにくねくねと宙を舞う。禍々しいものを見た気がした。温かい火とは違う。また和尚が奉書を投げ込む。解ける巻物が揺れる。今度は燃えない。何故紙に火が着かない。

「馬鹿もん、そこに突っ立っとらんで、わしの後ろに居れ。早く。」
慌てて和尚の背に回ったが、熱くて居られない。経を読む和尚の身体を盾に熱と光を避けた。和尚は大汗を流しながら経を読んでいる。僕には何が起こっているのか全く分からない。しかし、赤い火の中に、とても黒い、黒すぎる何かが揺れている。影でもない。影を作りもしない。何だあれは。それは小さくなったり、膨らんだり、揺れている。

突然金属臭い匂いが立ちこめる。
「臭い。」
和尚、何を燃やしているのだろう。臭くてたまらないが、その場を動けない。身体が動かない。和尚が左手で僕に床の香炉を押しやった。急に空気が澄んだ気がするのは香炉から清々しい香りがしたからだ。香炉を離すとやはり、金臭い匂いがしていて息を詰める。

読経は続く。東の空に明るさが感じられる頃、カラスの声を聞いた気がした。突然護摩焚きの火が弱まる。そして火が自然と落ちていった。汗だくの和尚はようやく立ち上がってお堂を出ていった。

「一巡りして、新しいものを始めるには区切りというものが必要なんじゃ。一周、360度回ったならば、其処に区切りが来る。境目がある。その境目はあの世とこの世の裂け目だ。闇と光の境。こちらのものが向こうに落ちてゆき、向こうから本来こちらのものではないものが侵入してくる。季節もそうじゃ。節分というのがあるじゃろう。祓い清めねば、邪が入る。邪の風は風邪じゃ。」
「あの、火の中に見えた黒いものは」
「闇じゃ。ものじゃない。」
「闇、ですか。」

「この寺は大岩の上にある。坂の上、崖の淵に建っとるようで、ここは岩の上にあるのじゃ。岩は地の裂け目を封じている。地の下の闇に蓋をしているのだが、時々、日の巡りによっては岩の割れ目から闇が漏れ出す。」
「あれが漏れ出すと、どうなるんですか。あれは何ですか。」
「何も起こらんよ。闇は元から存在する。あって当然のものだ。この世は闇と光、両方で成り立っている。東京の闇は膨らんで居る。そういう時期なのじゃ。」
「和尚はあの闇に何をしていたのですか。あの護摩焚きはどんな意味が。」
「お前は坊主にでもなるつもりか。」

それから、和尚は講釈の時間を作ってくれた。和尚は此の世、宇宙の成り立ちから、植物、動物、人、心、意識の話に至る。仏教の流派など詳しくないが、和尚が話してくれた話の中には仏様はあまり出てこず、太陽や月を巡る中東からアジアの人の解釈の違い。陰陽。僕は夢中になって学んだ。

ある日、和尚の使いで街に出ると、空気の濃さが場所によって違って感じられた。なんだろう。走り帰って、和尚に尋ねた。
「あの出版社のビルの前あたりで変な感じがしたんです。なんか、こう、急に空気を吸うのに力が必要になったというか。」
「うむ。」
「なんでしょうか。」
「うむ、香を焚け。読経の準備だ。」
答えを教えてはくれなかったが、言われた通り慌てて座布団と香炉の準備をし、香炉用の炭を起こし、香木を刻んだ。きっとこれから起こることに答えに通じる何かがある。


それから暗くなるまで和尚は経を読み、私は座禅を組んでいた。深夜、遠くで消防車のサイレンが鳴りやまない。そのうち、ヘリコプターの音までもが夜の静寂を乱す。火事だろうか。気のせいか、微かにきな臭い。

その夜、豊洲の倉庫の幾つかが燃えたらしい。多量の廃油が倉庫と接する海に流れたという。
「火の魔が漏れた。」

翌日、重い空気を感じた近所の出版社の建物には工事用シートが掛かり取り壊しが始まった。近くを通り過ぎる人の口から洩れる吐息が臭う。思わず袖で口鼻を覆った。作務衣の素で口は伽羅と竜脳の匂いがして呼吸を助けた。

立ち退き期日を前にして、和尚は荷物をまとめ雲水行脚に行くと言いだした。付いていきたいと言う僕を、足手纏いだ、迷惑だと突き放し、紫の袱紗に包まれたまとまった札束をくれた。
「これで、住まいと仕事を探せ。ただし、東京を離れろ。今すぐに。お前の今の感覚なら正しい場所を見つけられるだろう。」


和尚を日暮里まで見送り、涙を流しながら芝に戻る。夕刻、深まる空の蒼みと西の茜の狭間。色を破る白。搔き傷のような細い月が付けた痕。そこにだけ天が開けていた。どうしたらいいのだろう。社寺建築と桜、鉄骨が赤と白の線を編んだタワー。まるで書割りのような白々しさだ。もぬけの殻になった、壊されるだけの寺の中は特殊業者によって大仏様は運ばれて行ってしまった。何処へ行ったのだろう。どうなるのだろう。

明後日にはこの寺は、もう寺では無くなってしまう。和尚が手を入れた小さな花梨の盆栽を一つ、貰うことにした。和尚が大事にしていたものだ。裏の、あの茶の木はどうしよう。見に行くと、その場で息が止まりそうだった。茶の木がない。あれほど根を張っていた岩にも何の跡も見当たらない。何処に行った。いや、本当にここに茶の木はあったのだろうか。毎日飲んだ、水のような茶粥の茶。

大規模な土地開発が行われたそこは、まるでアミューズメントパークのような姿に生まれ変わった。新しく、大規模で、そして尊いものは何一つない。薄く、軽いものが吹き溜まっている。雲水の姿の僕を恐れるような眼ですれ違うスーツ姿。もう、誰にも止めることはできない。ぽっかりと口を開けた闇の深みを覗き見る。闇の口は呼吸するように大きくなったり小さくなったり形を変える。トンネルを出て、勢いよく右折した車が一台、開いた闇の口に吸い込まれて行ってしまった。

チリーン、チリーン、チリーン、鈴を3度鳴らして僕は読経を始めた。

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