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変わりたい、変わりたくない


どういうわけか最近よくイヤホンが壊れる。
根元を折り曲げることもなく、絡ませることもなく使っているのに、使い始めて3ヶ月も立たない内にノイズが走り始める。嫌な予感がしつつも使っていると、今度は勝手に曲が止まったり急に流れなくなったりする。勘弁してくれと思いながらしぶとく使っていると、ついに片耳が聞こえなくなった。両耳にイヤホンをつけているのに片方が聞こえないのは、めちゃくちゃ気持ち悪い。それはもう、本当になんとも言えない気持ち悪さがある。気分を変えたくて音楽を聞くのに、これじゃ何もリフレッシュできない。

「もういいや、外そう」

新しいものを買うまでの辛抱だ。それまでは仕方ない。
イヤホンというフタが取れた耳に雑踏の音が流れ込んでくる。通勤中でも休日でも、外出する際はずっと音楽に包まれていた。だから生活音にあふれる町が新鮮だったけれど、すぐに飽きた。革靴やヒールが闊歩する足音、駅のホームで流れるアナウンス、すれ違う人たちの会話は意外とうるさい。早く耳にフタをしたいと思って仕事終わりに家電量販店に向かった。

「形あるものはいつかは必ず消えて無くなる」

目星をつけていたイヤホンを探しながら、どこかで読んだ言葉を思い出した。
今ここで新しいイヤホンを買ったとしても、いつかはまた壊れる。また無くなる。また新しいものを買う。その繰り返し。イヤホンに限らず、パソコンだって今住んでるアパートだって、なんなら自分だっていつかは老いて死ぬ。

そうだ。時の流れの影響を受けるもの、つまり変わり続けるものはいつか必ず無くなってしまう。揺らぐことのないこの世の真理。じゃあ、変わらない方がいいのだろうか。それも違う気がする。時間の流れを止めることはできないし、不老不死だってファンタジーの世界でしか通用しない。生きていく中で「変わりたくない」のは不可能に近いと思う。

でも「変わりたくない」と言う人の気持ちも分かる。おそらく今の現状にある程度満足しているのだろう。今の仕事、パートナー、生活に満足して豊かな毎日を過ごせていることは素晴らしいし、それを守りたいと考えるのは当然だ。

だからこれは、変わりたい変わりたくないかの2択ではなく、問われているのは「変わらざるを得ない中で、どうやって変わらないものを見つけていくか」だと思う。変わらないものは尊い。きれいなものはきれいなままで残したい。無意識の内に過去は美化される。青春ってやつがずっと眩しくて輝きを失わないのはきっとそのせいだ。

けれども変わらないものって、そんなに敷居が高いものなんだろうか。探していたイヤホンを見つけ、レジで会計を済ませる間に少し考えた。

そういえば、と思った。

今買ったイヤホン、これは昔からずっと使っているウォークマンのために買ったものだ。ウォークマンそのものは機械だからいつかは壊れて使えなくなる。でも中に入っているたくさんの音楽たち。これはどんなに時間が経っても、例え私が死んだとしても形を変えず後世に残り続ける。

私が生まれる何十年何百年も前から、人間の共通の娯楽である音楽。その時代や年代ごとの背景を色濃く映しながらも、いつだって私たちの生活のすぐそばにある。これは誰がなんと言おうと「変わらないもの」に違いない。そしてその変わらないものには、時として人と人を強く結びつける力があることも、一つの真実だと思う。

中学・高校生の頃「誰かと好みが一致する」ことは、人間関係を築く中でめちゃくちゃ重要な要素だった。ふとしたきっかけで、あまり話したことのないクラスメイトが自分も好きなコンテンツを楽しんでいることを知った瞬間、ただのクラスメイトではなくなる。実は昔から知り合いだったのではないかと錯覚するような、ぐぐっと距離が縮まる感覚を覚えたものだった。

その中でも、やはり音楽の力は大きかった。
当時はスマホがようやく世間に認知され始めた頃で、大多数の人はまだガラケーを所持していた。今でこそスマホからイヤホンを通じて音楽を楽しむ人を見かけるようになったけれど、まだ携帯電話と音楽は切り離されていた。

だから音楽を楽しむためには別の機器が必要で、その二大勢力を主に占めていたのがiPodとウォークマンだった。最初に買ってもらったのはiPodで、数年後に今も使っているウォークマンに乗り換えた。当初、音楽の入れ方は全く分からなかったので全部父親任せ。少ない曲数ながらも出来上がった自分だけのプレイリストを、毎日毎日聞いていた。

音楽を聞いているといつもの景色が違うように見えた。モノクロ写真が現代の技術によってカラーで蘇ったような、つまらない時間だった通学が彩りあるものに変わった。行き帰りの電車が楽しくなった。自分と同じように周りのクラスメイトも、思い思いの音楽を楽しんでいた。王道ポップ、アイドルソング、ロックバンド、アニソンまで。音楽プレーヤーを見ればその人となりが分かるような気さえしていた。

実はあのバンドが好き。
その一言がきっかけで話した人やCDを貸し借りした人、一緒にライブに行った人もいた。今は連絡を取り合っていないため、彼らがどこで何をしているのかは分からない。でも、例え10代の一瞬だけだったとしても、音楽を通じて彼らと繋がったことは事実で、それだけは忘れることはないと思う。フワフワと宙を漂ってすれ違うことのなかった自分たちを、地に足つけて同じ目線に立たせてくれた。変わらないもののおかげで私たちは確かに手を取り合うことができたのだ。

そう考えると、変わらないものによって、また変わらないものが生まれるという、ある種の連鎖反応が起こっていることが分かる。えらい人の「お金はモノよりも体験に使った方がいい」というアドバイスは、確かにその通りなのかもしれない。体験は成功だろうが失敗だろうが無かったことにはできない。過去の出来事としてずっと残り続ける。結果的にそれが次なる行動のきっかけになったりするのだろう。

変わらないものによって、人は誰かと繋がることができるのは間違いない。冒頭に私は、問われているのは「変わらざるを得ない中で、どうやって変わらないものを見つけていくか」だと言ったけれど、じゃあ変わらないものを求め続けていれば、いつか望む方へ変われるのだろうか。自分で書いているくせに、はっきりとした自信を持てなくてモヤモヤしていたが、そんな時にちょうど、音楽に関連してある言葉を思い出した。


「10代で口ずさんだ歌を、人は一生口ずさむ」


私が高校1年だった2010年に発表されたウォークマンのキャッチコピー。すごく好きだ。ため息が出るほどに素晴らしいコピーだと思う。
変わることの寂しさの中にそっと包まれた、変わらないものに対する希望。思い通りに変われなかった人、まだ変われなくてもがいている人、どちらも肯定してくれているような雰囲気。うまく言えないけれど、そういったものが確かにこの一文にぎゅっと詰まってる気がする。

今改めてこの言葉を見たとき、私は確信した。
変わるものと変わらないものは、どちらか一方だけを切り離して考えられるものではなく、コインの裏表のように共存関係にあると。表が出るのは裏が下を向いてくれているからで、逆もまた然り。立ち止まって休むことで、また次に歩み出す力を蓄えられる。同時に、毎日を進み続けることで、立ち止まりたくなるような新たな発見もあったりする。

変化となると、引っ越しや転職、誕生日など、節目の大きな出来事に目を向けがちだけれど、時間が流れている以上、今この瞬間も静かに変わり続けている。小さな小さな変化の中を、私たちは生きている。それがたまに大きくなる時だけ、さも人生の分疑点かのような印象を受けるのだと思う。

明日も変わる、あたらしい日。
「変わらざるを得ない中で、どうやって変わらないものを見つけていくか」は少し違っていた気がする。
「私たちの意思に関係なく変化する毎日の中で、どうやって変わらないものを見つけていくか」が、正しい問いかけだと思った。そしてその答えは、やはり毎日の小さな変化の渦の中にあるのだろう。

焦らなくてもいい。ゆっくりと、少しずつ、見つけていけたらいい。
変わることも、変わらないことも、恐れる必要はないのだから。


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