オタクによる「推し」概念のお話


はじめまして。仁です。いに、と読みます。


推しとオタクと好きのお話。


昨今急速に広まった「推し」文化。
おしゃれをし、缶バッジを集め、アクリルスタンドを買い、写真を撮り、フレームをデコり(デコる、って死語なのかな。)、そしてイベントに「参戦」する。
みんながやってて、推しを推すことに違和感がなくて、白い目で見られることもなくて。

ほんの6年前くらいまでは、アイドル好き、アニメ好きは「ドルオタ」「アニオタ」と呼ばれ、教室の隅っこにしか居場所がありませんでした。グッズを持っていようものなら嘲笑の的だったあの頃。
まさしく命懸けで応援していました。

好きなものを応援することを誰にも笑われない環境になったことが、「推し活」の最大の功だと思います。

推しという概念がさまざまな「推し」対象-アイドル、アニメ、配信者、などなど-に関わる門戸を広くしてくれた反面、推しは「好き」を遠ざける概念にもなりました。

推しの対象は、あくまで「推し」の域を出ない。
好きな人!じゃないんです。

「推し」とか言ってないでちゃんと「好き」って言えばいいのに!

そう思った自信家たち。
ちょっと待って。

昔から「好き」じゃなくて「俺の嫁」

何かを「応援する」ときは、「好き」とは言わないんです。

これはアイドルとファン、配信者とオタク、としての「距離」をとるときにとても重要な言葉選びになります。

日本語の「好き」はあまりにも意味概念がごった返していて使いづらすぎる。
そのくせ、「好きレベル」のグラデーションに関しては繊細で、面倒。

だから代替として「推し」「嫁」が使われる、って流れ。

かつ、こと「オタク文化」に関しては、教室で迫害されてきた過去があります。

・タイプA
 お前なんかが○○のこと好きなんかよ!

・タイプB
 これってアニメのキャラじゃん笑

・タイプC
 え、こんなん好きなん??変じゃね??

クラスメイトからの言葉は3分類できます。

これらの言葉が、「○○を好きでいる自分」の状態に対する自信を失わせ、「好き」を使うことを拒み始めた気がします。


「好き」を伝えること、受け取ることって、実は双方にとってすごく怖いこと。

「好き」を伝える方は自信が必要。
上記の外的要因などによって「自分なんかが」という意識が醸成され、いつしか「自分」を形作るはずだった「好き」に対する自信が持てなくなってしまう。

「好き」を受け取る側は覚悟が必要。
「好き」は受け取ることしかできません。相手から「好き」が表出されたが最後、その調理はこちらの責任になります。
全部を受け取ると受け取る側が重みで潰れてしまうし、かと言って「好き」を宙ぶらりんのままにしておくこともできない。

好きって、すごくすごく怖くて、とても勇気がいること。
使い方を間違えると、強力な毒になること。


先人たちは、これを重々承知していたのでしょう。
だからこそ、「推し」という概念が登場し始めた。



「推し」は、「好き」から一歩距離を置くことで、自分も相手も守ることができる最強ツールだと思うのです。


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