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IBN寮物語—新入寮生歓迎会3—

  私と猪俣が4階談話室に戻ろうとしているとき、4階の便所の流し台で、初めての手術を終えた外科医のように、手を洗っている坊主頭がいる。嘉門である。話を聞くと、嘉門は口上(こうじょう)を済ませた上に、自力で便所で吐いて、その後自分の手や口をゆすいでいたとのことだった。そして、「二人とも口上(こうじょう)まだやってなかろう。みんな待っとうよ」とまるで自己紹介を済ませていない我々をIBN寮内の寮生が待っているかのように言った。
 これが口上(こうじょう)指名の怖い側面である。つい一時間ほど前までは、新入寮生全員が口上(こうじょう)という飲酒の強要に戦々恐々としていたにも関わらず、一度口上(こうじょう)を済ませた者は、当然のように口上(こうじょう)をしていない者に口上(こうじょう)を迫るように変貌していくのである。つまり、飲酒強要の被害者がいつの間にか加害者に変容しているのである。集団の狂気である。
 私と猪俣がしぶしぶ4階談話室の引き戸を開けると、ちょうど北王子が口上(こうじょう)をするところだった。新入寮生が北王子のグラスに「飲み物」を注ぐのであるが、当然注ぎ慣れていないため、ほとんどは泡であり、北王子のグラスには実質、半分程度しか残っていない。
 北王子が覚悟を決めて叫び始め、聴衆が合いの手をいれる。「鹿児島県立〇〇高等学校出身」『おおー』「13P(13年度入寮、教育学部の意味)」『おおー』「北王子金時」『おおー』「酒の一滴は血の一滴、謹んで一気いかせて頂きます。」こう叫んだあとに、北王子はグラスを傾けて、グッと飲もうとする。
 が、次の瞬間、飲んだはずのものが一瞬でグラスに戻ってしまった。しかも、半分程度しか入っていなかったグラスの中身がなんと満杯に達しているのである。現代科学が不可能としている第一種の永久機関(虚無から物質を作り出す機械)が北王子の体内で出来上がったのか、と一瞬思ってしまったが、そんなことは無かった。彼は直前に「ウコンのエキス」を口上(こうじょう)の予防策として飲んでいたのだが、それも一緒に吐き出してしまっただけのことだった。
 なお、これ以降、IBN寮内での北王子の必殺技は、彼が剣道で得意とする「先の先(相手が攻撃しようとしてくる機を感じ取って、先に攻撃を仕掛ける)」や「後の先(相手が攻撃してくるのに合わせて、攻撃を仕掛ける)」ではなく、「瞬ゲロ(今飲んだ物を速攻で戻す)」になった。
 この後、猪俣が「先の先」を取って、私に口上を行うよう指名すると、私が「後の先」を取って、彼に口上を行うよう指名する、という泥試合が行われたのは言うまでも無い。共に4階の便所で吐きまくり、文字通り汚れていった。


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