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「今村大将と昭和天皇の接点 その10」/第八方面軍司令官としてガダルカナル戦線に関する、勅語を受ける(ガダルカナルの撤退 その2)

8)、9)昭和十八年一月 第八方面軍司令官(リマインド)

・昭和天皇より、山本五十六連合艦隊司令長官とともに南西太平洋方面の闘いに対する嘉尚と、激励の勅語を賜る。
・上記勅語に対する奉答を送信し、杉山参謀総長より昭和天皇に奏上される。
の二項目で、昭和天皇実録第九巻の4頁、5頁に記載されていて、直接の拝謁を賜ったわけでなく(実際今村さんはラバウルで指揮をとっており)、電報で勅語を受け取り、電報で奉答を送っています。

ガダルカナルの撤退(リマインド)

ガダルカナルの撤退は奇跡的に残存者のほとんどを撤退、救うことができたものです。
ガダルカナルにはすでにこの時点で第十七軍の三万の将兵が投入され、敵へ以下に斃れたものが五千、餓死したものが一万五千、残った一万の将兵のみを撤退させるということだったのです(その残った一万も餓えに苦しんで撤退行さえ自立して行うことが危ぶまれる栄養失調の将兵でした)。
ただ過半を失ったとは言え、残った一万の将兵を是非とも救わなければならないという任務だったわけです。

本編(ここから本記事)

ガダルカナル撤退への大本営作戦変更

ガダルカナル撤退への大本営作戦変更について、「丸 別冊」(潮書房、平成三年十五日第十七号)の上記井本熊男参謀の手記「わが将軍の回想尽きることなし」から引用したいと思います。

「(昭和)十七年十二月上旬、大本営はガ島奪回を断念し、田中第一(作戦)部長、服部第二(作戦)課長を更迭した。新作戦課長真田大佐は、ラバウルに進出した。
 表向きはガ島攻略方針に変化なきことを標榜しつつ、とくにニューギニア方面の運用に関して大本営の希望を述べたが、実は第十七軍をガ島で玉砕するまで戦わせるか、撤退させるかの大本営としての決心資料を得ることが、その目的であったと私は見ている。
 真田一行はひそかに方面軍各参謀の意見をきいたが、全員撤退案であった。真田大佐は直接今村将軍に玉砕か撤退かを尋ねた(これはあとでわかった)。今村将軍は、
『玉砕などと第一線が聞いたら、直ちに腹を切って全部死ぬるであろう』
と言って断乎としてこのまま最後まで戦わせることに反対された。これで作戦課長は撤退に決意して復命したのである。」

とあります。
「今村均回顧録」には今村さん自身のこのような考え方は記されていますが、この部分の記載はありませんので、井本さんがこのようなことを具体的に書き残されていることで我々にもこの方針転換に関する実状が直接に伝わってきます。

飢えに苦しみ必死で戦うガ島進出の第十七軍への親書

ガ島で飢えに苦しみ必死で戦う百武軍司令官をはじめとした生き残り全将兵を撤退させることは非常な困難がありました。
まず、撤退を納得させることが大困難でした。しかも制海、制空圏を奪われた中で作戦としての撤退を実行することの難しさです。これらを承知した上で、第八方面軍としてのガ島撤退実施があったのです。

第十七軍将兵への方針転換、撤退命令には、陛下の勅語がある上で、今村さんも直属上司、方面軍司令官として、百武第十七軍司令官に対して親書を送られたということが、「丸 別冊」(潮書房、平成三年十五日第十七号)の上記井本熊男参謀の手記「わが将軍の回想尽きることなし」に記載されています。

「撤退に関する第八方面軍命令伝達のため、私(井本)がガ島に到着したとき、第十七軍首脳はすでに全軍総突撃、玉砕を決意されていた。そのため撤退命令の遵奉は、極めて難しい問題であった。
 しかるに参謀長以下の強い玉砕意見にもかかわらず、百武軍司令官は命令遵奉の決心をされた。百武将軍の心中はわからないが、私が奉持して手交した勅語もあり、今村将軍の親書もあった。
 大命にもとづく方面軍命令という厳正な服従規範もあったが、私は仁徳の溢れた今村将軍の親書の影響がおおきかったのはあるまいかと忖度している。」

としています。

ガ島撤退作戦

さて、1月4日の大本営の撤退命令後、第八方面軍は、大本営から転職してきた井本熊男参謀を方面軍参謀に加え、杉田参謀と有末大佐作戦課長をはじめとする作戦課で練り上げました。
(そもそもガ島の第十七軍は全将兵が栄養失調で作戦立案は無理だとの判断があったということです)

「今村均回顧録」から以下、引用します。

「それで方面軍の杉田、井本両参謀が、右の計画を立て、有末大佐を長とする作戦課内でこれを練り、私の決裁後、井本、佐藤忠彦両参謀が潜水艦により、ガ島に上陸の上、第十七軍の参謀長宮崎周一少将を補佐し、百武軍司令官の行なう撤去指導を容易ならしめることにした。
 撤収行動を察知されたり、敵機の爆撃を受けたりすることを避けるため、二月はじめの新月の夜を中心として、乗艦を行わせることにし、それまでの約四週間、百方手段をつくし食糧を送り、現陣地から乗艦地までの約ニ十キロ(原文キロは漢字)の歩行を可能ならしめることが先決の処置であり、なお一方、敵が日本軍の撤退に勘づき、突進して来る場合を考慮し、在ラバウルの精鋭一大隊約千名を送り、これを第一線に突きだし、その掩護下に一日四キロ(同前)ぐらいづつ後退せしめることに手配した。
 この四週間の食糧輸送と生存者約一万名の乗艦輸送に従事された、ニ十隻の我が駆逐艦と、幾隻かの潜水艦の奮闘には、なんとも云いあらわしようのない感激を覚えしめられた。」

と今村さんは記されています。
このようにして、残存生き残っていた将兵はガ島進出約三万名の1/3であったわけはあるのですが、その残存兵のほとんどを勢力圏のブーゲンビル島へ収容することができたのです。



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