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「日露戦争奉天会戦/司馬遼太郎史観に騙されないで その2:奉天会戦はじまる」 乃木さんの孤独な闘いと殊勲

 さて、満州に対峙する日露両軍はいよいよ雌雄を決する奉天会戦(明治38年2月~3月)を戦います。
1)奉天とその南方に対峙する日露両軍
 露軍は、奉天城を根拠に東西150kmほどにわたり堅牢な陣地を築き、37万の兵を擁しています。一方、遼陽から攻めあがってきた日本軍も沙河、黒溝台の両会戦を制し、露軍陣地と平行に陣地構築し25万の兵をもって対峙しています。この対陣の西部の南南西から北北東へ東清鉄道南満州支線のちの満鉄が縦断しています。

2)日本軍の作戦
 日本軍の作戦は、なんと寡勢による包囲作戦です。第一に日本軍最右翼川村大将の鴨緑江軍が戦を仕掛け、右翼から露軍を包囲する体制を築く。第二に日本総軍南部遼陽に集結した乃木大将の第三軍が左翼を迂回、露軍西郡戦線を包囲しにいく。この動きに敵将クロパトキンは予備軍あるいは中央の一部を割いて右翼、次に左翼に対する日本軍攻勢を右往左往と抑止しに来るはずであるから、そこに出来た中央戦線のスキをつき中央突破を図り、露軍を殲滅する、という非常に大胆なものです。

 この作戦について、乃木大将は第三軍の要請として、西部で包囲攻勢をはかることがカギになる作戦であり、一個師団及び若干の砲兵の加勢を上申しました。しかし、総軍司令部はおとり役の第三軍にそこまでの兵力は割けないと拒絶します。この拒絶は侮辱的であったとのちに第三軍参謀の津野田大尉は証言しています。
 この時点で第三軍は三個師団(第一、第七、第九)一個旅団、野戦砲兵一個旅団及び騎兵第二旅団で構成されていましたが旅順で多くの兵を失ったこともあり実数で4万弱という兵量でした。この上申は、まさに的を得たもので、実際第三軍への、この一個師団+砲兵の加勢が実現していれば奉天会戦は日本軍の圧勝だったとも言われていますが、これについては後述します。

3)開戦始まる
 上記作戦のもと、いよいよ奉天会戦の火ぶたが切って落とされます。二月二十一日日本軍最右翼川村大将率いる鴨緑江軍が露軍を攻めにかかると、次いで隣の黒木第一軍が動きます。敵将クロパトキンは、機敏にこれに対応し、日本軍右翼方面へ増援部隊をおくり対処しました。当初鴨緑江軍に旅順攻略戦で第三軍に属していた第十一師団が加わっていたため、クロパトキンは鴨緑江軍を敵主力乃木第三軍と誤認し、かなりの増援部隊をおくりました。
 ここまで日本軍の作戦通り動きました。ここで2/27総軍司令官大山元帥は、日本軍全軍に攻撃命令を下します。
 乃木第三軍は、予定通り左翼を迂回気味に怒涛の北進をしていきます。3/1には日本軍左翼から突出してくる乃木第三軍をクロパトキンが認め、即時予備兵力として乃木軍の約1.5倍の兵力を西部戦線へ振り向け対応します。しかし、乃木軍の北進は速く、露軍の抵抗は激しかったが、最前線は3/4には奉天城の線より北方に突出するまでになります。ここまでは全て日本軍の作戦通りに進んできています。
 しかし2/27から3/4までの間、他の主力である日本軍の進捗が全くはかどりません。実際このあと、乃木第三軍が北進しすぎたため奥第二軍との間にギャップが発生、破綻の恐れが出てきたことから、乃木軍に停止命令までする始末です。
 3/4この時点まで来て、日本軍右翼から中央までの戦線は日本軍の攻勢にもかかわらず膠着状態を続けて全く動きません。

4)作戦の変更
 この膠着状態、と言っても、乃木軍以外が動かない状態ですが、ここで日本軍は大きな作戦変更を行います。
 この戦いの実態に即して、ということでしょうか、その作戦変更は、乃木第三軍を主力として左翼から露軍を包囲殲滅するというものです。
 

その3へ続きます。

以下、参考文献


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